菅原明朗の作品目録を一見して目につくのは、マンドリン・プレクトラム合奏曲の多さである。
実際に、菅原は、日本の音楽界において常設の管弦楽団が存在していなかった時期から唯一定期的に活動を行っていた合奏団であるシンフォニア・マンドリニ・オルケストラ(1923[大正12]年にオルケストラ・シンフォニカ・タケヰと名称を変更、以下本稿ではこの名称に統一)に加わり、活躍していた。
しかし、武井守成男爵(1890-1949[明治23-昭和24]年)を中心に結成されたオルケストラ・シンフォニカ・タケヰ自体、明治以後の日本の音楽史の中でその存在が語られてきたに過ぎず、アマチュアの団体であったことも災いして、まとまった研究はほとんどなされていない。(4)
他方、菅原明朗は、その初期の作品において近代フランス音楽の影響を強く受けた最初の日本人作曲家であり、大正から昭和初期にかけての日本の音楽界へそれを紹介したことでも知られる。(5)
この時期、菅原はオルケストラ・シンフォニカ・タケヰに加わっており、1932(昭和7 )年7
月に正会員を退くまでの15年もの間、オルケストラ・シンフォニカ・タケヰにおける活動は、彼の音楽活動の重要な部分を占めていた。
本稿では、上述の『マエストロの肖像―菅原明朗評論集―』の他、武井守成が発行していた雑誌『マンドリンとギター』およびその後続雑誌である『マンドリンギター研究』を基礎資料として用いて、オルケストラ・シンフォニカ・タケヰにおける菅原の活動を辿り、大正から昭和にかけての初期の日本人作曲家がどのように近代フランス音楽を受容し、自らの創作に生かしていったのかを考察していきたい。
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1925年にラジオ放送が開始され、1926年に新交響楽団(現在のNHK 交響楽団)が設立されるなど、昭和初期には人々が管弦楽の演奏を聴く機会は増加した。
吹奏楽と同様に、管弦楽団の代替としてのマンドリン・オーケストラの役割は、過去のものになったのである。
しかしながら、大正期から昭和初期という西洋音楽が大衆化されていった時代に、アマチュアと専門家、クラシックとセミ・クラシックという様々な層があり、各々のせめぎあいの中で、西洋音楽が受容されていった。
オルケストラ・シンフォニカ・タケヰの活動からはそれらの諸相の一面が思い浮かぶだろう。
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- [出典]
- 初期の日本人作曲家における近代フランス音楽受容――菅原明朗とオルケストラ・シンフォニカ・タケヰをめぐって ――佐 野 仁 美
- 2024/03 学術論文 「フランス派作曲家菅原明朗と宮城道雄の協働―《千鳥の曲》をめぐって―」 『関西楽理研究』 関西楽理研究会 (40):33-46 (単著)
- 2015/02 学術論文 「初期のフランス派作曲家菅明朗と永井荷風―2つの歌曲《さすらひ》《口ずさみ》をめぐって―」 『京都橘大学研究紀要』 41:117-131 (単著)
- 2014/02 学術論文 「昭和初期の日本人作曲家と新日本音楽―菅原明朗と宮城道雄―」 『京都橘大学研究紀要』 40:63-84 (単著)
- 2013/01 学術論文 「初期の日本人作曲家における近代フランス音楽受容―菅原明朗とオルケストラ・シンフォニカ・タケヰをめぐって―」 『京都橘大学研究紀要』 39:208-232 (単著)