[Japanese Guitar Music], "How to Learn the Guitar" by Kinichi Kobayashi, published by Yoshio Shobo[日本のギター音楽],佳生(よしお)書房発行の『ギターの習い方』小林欽一著

『ギター古典の薫り Vol.6』/ [1986年10月号 ]
『日本のギター音楽』 小林欽一著『ギターの習い方』より
『わが国ではギターが何時頃渡来したかは、正確には知られていません。
もちろん明治に入ってからの事は、比較的正確に知ることはできるのですが、しかし、大体の見当はそれよりさかのぼること約四百年、つまり室町時代の末期に、例のフランシスコ・サビエルが来朝した時に、共にギターも渡来したのではないかと伝われています。
その頃といえば丁度、16世紀の半ばに当り、ギターの発生地であるスペインでは、ビセンテ、エスピネルというような人々によって、四絃であったギターに最高絃が付加されて、始めて五絃を持つようになり、更に、それが「スペインのギター」と呼ばれていた頃です。
しかしながら、このことは、資料のうえから伝ってもほとんど有力な証拠がないので、これは、想像にすぎません。
したがって、ギターの渡来は、やはり明治年間に移した方がいい様です。
ギターがわが国に入ったと信じられるのは、大体明治1 5~1 6 年だと言われています。
そしてそののち丁度日露戦争の頃に、その頃の有名な通人として知られていた平岡某という人によってギターが愛玩されていて、しかも、或る程度の演奏までなされていたということです。
更にまた、この平岡なにがしの息子さんであり、後に作曲家として活躍している平岡次郎氏のことを、「父君の演奏によって大いに刺激をうけ、ギターを研究するようになった」と書いてある書物からも、やはり、この頃からギターはわが国でも、演奏されていたのでしょう。
そののち、明治のおわりごろになって上野の美術学校の学生のあいだに「マンドリン音楽」が流行をきわめ、このマンドリン音楽にはどうしてもギターを必要とするところからその当時のメンバーのうちでギターのパートを受けもっていた学生間にさかんに研究されました。
ついでイタリア人のアドルフォ・サルコリが声楽教師として来朝し、また同時にギターをも演奏したことはあまりにも有名です。
そしてそのサルコリによって、わが国にはじめてギター音楽らしいものが知られるようになったのです。
このサルコリの作品はほとんどわずかながらわが国でも出版されていますが、カルカッシの初歩の程度を出ないまことに幼稚なものでありますが、当時の、つまりわが国の初期では得難い貴重なものであったわけです。
さて、日本人で一番最初にギター独奏を公開し演奏したのは関根文三氏だと伝われています。
これは大正4 年で、演奏し、曲は、前に述べましたサルコリのタランテルラやその他でありました。
[*管理人追記]
・1915(T04)年06月20日(日)14:00開演《第3回 音楽普及会》会場:女子音楽学校 奏楽堂
指揮:田中 常彦
第1部[ギター独奏]/第2部[マンドリン独奏・テノール独唱・マンドラ独奏]
第1部[ギター独奏]
■関根 文三(ギター) モスクワ デッカー=シェンク/タランテラ アドルフォ・サルコリ
・1915(T04)年07月03日(土)19:00開演《大学 (第4回) 大音楽会》会場:慶應義塾 大ホール
指揮:田中 常彦
指揮:アドルフォ・サルコリ
■ギター合奏 (サルコリ、関根、L.クリンゲン、西川夫人、ベルタッツォーリ、イーストレイク、大口嬢、田中 )
夜警の巡査 アドルフォ・サルコリ
ナポリ・タランテラ アドルフォ・サルコリ
[*参考文献]:慶應義塾マンドリンクラブ Web Site/KMC Historyより
当時、これも前に述べた美術学校の学生からはなれてマンドリンの合奏の団体が出来ていて、その頃はすでに「東京マンドリン倶楽部」や「慶応マンドリン倶楽部」も生れており、その発表会の折々には、サルコリも、たまには招かれて、公開の演奏をしています。
大正4 年には『オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ』というのが誕生して、その翌年の5 月から演奏会を持ち始め、毎回、武井守成氏によってギターの独奏が行われています。
そしてこの『オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ』では研究誌として『マンドリンとギター』を創刊して、これは当時の唯一の言論機関でした。
もっともマンドリン合奏が盛んに行われるようになったのにつれて、どんな会にでもギターの独奏が行われていたと思われがちですが、事実はその数はきわめて少ないもので、ギター独自の動きと伝うものは、いまだ見られませんでした。
しかしその間、この合奏団内のギターのバートをもっていた奏者はマンドリン合奏だけに満足していたのではなく、公会の発表はしなくとも、各自が夫々研究を続けていたのでした。
大正1 0 年3 月、この年『オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ』ではじめて「ギターの夕」が催されました。このことは、先ほども書いたように各自が秘かに研究を続けていたのを物語るのです。
この時の曲目をちょっと紹介してみますと、
アラビヤ風狂想曲 タルレガ
船歌(音詩) ヴリーランド
ジャネット オルコット
奏者 武井守成
汝悲しむや アルバ
悲想 ビニアス
奏者 高橘文雄
ウラニア フェレール
スペインの思い出 ブロカ
奏者 村上三郎
となっていますが、この当時において、もうすでにアラビア風狂想曲が上演されていることはちょっと注目に値します。
他の曲と比較して本格的であるのは、次に来たるべき新しき時代を充分に想像させる事が出来るのです。
また一方、大阪ではその翌年、つまり大正1 1 年に、松井竜三氏の『イル・ドマーニ・マンドリーニ・オルケストラ』が石川俊二と川瀬晃の二人のギタリストを擁して、度々ギターだけの演奏会を催しています。
この両氏による演奏は当時としては誠に画期的なものであって、技紺的にも相当高く評価されています。
この時の独奏では、たとえば、
ソナタ作品15 ジュリアーニ
カンツォネッタ作品147 ジュリアーニ
二重奏では
慰楽曲作品34 ソル
大変奏曲作品35 ジュリアーニ
などがあり、数回にわたってこの程度のものが発表されているのですから、当時としては相当高度なものであったと、充分想像することができます。
ところで、武井守成氏や石川俊三、川瀬晃氏などを中心とするギターの運動は、当時のいわば最先端を行くものであったわけで、その他の団体では、時折、マンドリン演奏会のなかに、ギターの独奏が加えられるということはありましたが、曲目も主としてフェレール、ブロカ、ビニアスなどの通俗的なものがほとんどであり、タルレガの作品では『ラグリマ』『ロシタ』などが加わったにすぎず、当時の一般的演奏能力も、またギターに関する考え方も、幼稚な域を出ていなかったと伝っても過言ではありません。
また、このころ、武井守成氏の『野遊び』『タルレガに捧ぐる曲』『軒訪るる秋雨』などが出版されています。
これが相当の売行きを示し、各地で演奏されはじめているということは、当時のギター熱を物語るものとして注目すべきでしょう。
この証明として大正1 4 年に、ギター独奏およびマンドリン独奏曲の作品コンクールが行われています。
これは、前記の『オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ』の主催で、審査員としては武井守成、田中常彦、大沼哲、菅原明朗の四氏が当っています。
この時の一等には堀清竪氏の『船唄』が選ばれて、出版もされています。
このころ、わがくににイバニエスギターがスペインから輪入されて、その頃の値段で22 円から1 5 0 円見当で一般に発売されています。
このイバニエスギターのほかには、カラーチェ、ヴィナッチャギターも輪入され、また国産品としては鈴木ギターが15 円から80 円見当で市販されています。
大正1 5 年、つまり昭和の元年ですが、この年には武井守成氏が「マンドリン・ギター片影」と「マンドリン・ギター及び某其オーケストラ」が発行されており、これが我国のギターに関する文献の先駆をなしたわけです。
また同じくこの年に宮田政夫、月村嘉孝両氏によって『マンドリン・ギターの夕』が主婦之友社の講堂で行われています。
月村氏の曲目は、
子守唄 シューマン
カプリチオ作品20 の9 レニアーニ
ワルソー シャンド
であり、
またジュリアーニの「バイオリンとギターのソナタ」作品25 がマンドリンによって上演されていますが、これはギターをあくまでもマンドリンとの組合せとして考えて本来のバイオリンを使っていないところに当時の思潮が伺がわれるのです。
またこの年には、京都帝国大学マンドリンオーケストラ第7 回発表会に貴家、福光の両氏によって、ソルの二重奏「二人の友」が演奏されていますが、これによってギターの演奏技術は急速に進歩していった のです。
またこの頃「オルケストラ・エトワール」の私演会で河合博氏が、
詩曲 ブジョール
メヌエット形式による練習曲 タルレガ
を演奏していますが、プジョールの作品が始めて現われており、漸次近代的な傾向が見られます。
ところで昭和2 年に至って、田中常彦氏と月村嘉孝氏の二人がヨーロッパヘ旅行するために、送別演奏会が横浜市と下関市とで行われたのですが、これには月村氏がカルリのソナタ第一番作品21 と、タルレガのホータを弾いているので、前述の2 人の人、つまり貴家、福光氏と共に、、これまた画期的な演奏であったわけです。
大正1 5 年から昭和2 年にかけて、横浜の池上富久一郎が、3 回ほどギターの独奏会を開いていますがこの人のことについてはほとんど知られていません。
しかし、この人が恐らく本邦最初の独奏会を開いたのではないかと思われます。
ところでこの人の第3 回目の曲目は次のようなものでした。
挽歌 メルツ
夜曲作品3 の1 フェルランティ
ロシヤ風主題と変奏作品10 の12 カルカッシ
ソナタ作品15 ジュリアーニ
序楽作品6 カルリ
蕪言歌作品13 の11 メルツ
マズルカ メルツ
妖怪のロンド作品2 フェルランティ
夜の渚作品2 池上富久一郎
であり、
このほか、川瀬晃、佐津川渉三両氏による「ギターの夕」とか大河原義衛氏のギター独奏会がビアノの伴奏を交えて開かれています。
こうして実に真剣な研究が次から次えと発表されているのですが、当時の「マンドリン・ギター研究」という雑誌にはセゴビアとかリヨベットとかその他の世界的な有名なギタリストの動静が詳しく報じたれていて、セゴビアヘの関心が急に高まっているということが手にとるようにわかるのです。
そしてまた、「ギターの低音の調性について」など、菅原明朗氏がまじめで良心的な研究も発表しています。
また、この昭和2 年という年には、沢ロ忠左衛門という人によって「アルモニア」とか宮田政夫氏によって「マンドリン・ギター詳論」「エトワール」などが続々と創刊されているのです。
と伝ってもこれらは、やはり依然としてマンドリン合奏を主としたものであって純粋にギターの為のものではなかったのです。
しかしこれらの雑誌類の中には、きわめて真剣なギター探究が行われているものもあり、マンドリン合奏の演奏会におけるギターと同じ歩調をもって進みつつあったのです。
昭和3 年にいたると、前記の池上富久一郎氏の第4 回目のギター独奏会が行なわれています。
これは「スベインの夕」という銘をうって行なわれていますが、これは他を断然圧する現代的なプログラムをもって充され、全く画期的な催しでありました。
場所は横浜の日本メソジスト教会、月日は3 月24 日のことであります。この独奏会には賛助として第ニギターに勝又一男氏が当っており、曲目は勝又氏と組んでの二重奏から始められ、
[二重奏]
慰楽曲作品38 ソル
二人の友作品41 ソル
[独奏]
前奏曲第5 番 タルレガ
トルコ宮女の踊り タルレガ
大ホータ タルレガ
メンデルスゾンの主題による前奏曲 タルレガ
オマージュ ファリア
ファンダンゴ トルロバ
子守歌 プジョール
マリア タルレガ
前奏曲第6 番 タルレガ
マズルカ ショパン
ムーア黒女の踊り タルレガ
であり、
これは当時としては非常に急進的で意欲的な選曲であったと伝わなくてはなりません。
しかし、これもまた御多聞にもれず、「オルケストラ・フィラルモニカ」という音楽団体の主催になっていることを考え合せれば、この池上氏もこの合奏団の一員としてギターのバートをうけもった一奏者であったと想像されるし、もちろん絃もスチールであったことでしょう。
あるいは当時、すでに横浜にある楽器店でガット弦を売っていたことが証明されているので、池上氏もガット弦を用いたかも知れませんが、当時ガット弦は、殆んど需要されなっかたとも伝われています。
昭和3 年と4 年とこの2 回にわったて、大河原義衛氏も独奏会を神宮外宛の日本青年館で開いていますが、この時の主な曲目は、
昭和3 年の7 月に行われたものは、
アンダンテ ソル
メヌエット5 番 ソル
ガロップ ソル
涙 タルレガ
ロシタ タルレガ
アデリータ タルレガ
昭和4 年5 月北海道で行なったものは、
大ソナータ作品7 モリトール
主題と変奏作品9 ソル
カブリチオアラベ タルレガ
マラゲニア タルレガ
スペイン舞曲第5 番 グラナドス
花束 大河原義衛
昭和4 年10 月26 日、わが国の音楽界はギターの巨人セゴビアを拍手をもってむかえたのでした。
ギターの渡来以後、最初にしてしかも最大の、そして決定的なショックはやはりこのセゴビアの来朝にあったと伝っても過言ではないようです。
彼の来朝以後のわが国のギター界は彼を追うことに夢中であった、という感がします。
それほど彼の影響がわが国ギター界に決定的なものを与えているのです。
たとえば、仮に、この日に日本に来朝したのが、この巨大なギタリストであるセゴビアでなくして、やはり彼と同じく巨大であるリヨベットとかブジョールであったなら、わが国のギターは現在とは異なる道を歩んでいたかもしれません。
そしてまた、現在、現われつつあるセゴビアヘの反動的な機運も、別な形をもっていたに相違ないと思うのです。
彼の来朝以後のギター界の動きは、彼のことに触れずには一言も語れない、と言うほどです。
そして、それは、ギタリストであるセゴビアを通して、新らしく認識された「タルレガ」(作曲家)である事に外なりません。
つまり、セゴビアを知ったことは、すなわちタルレガを知った事であり、それは更に、近代ギターヘの脱皮を物語っているのです。
ところで、セゴビアが来朝するまでに、すでにビクターから
主題と変奏 ソル
ガポット バッハ
の二曲が発売されており、来朝と同時に、
トレモロ練習曲 タルレガ
ファンダンギリオ トリーナ
ソナチネ トルロバ
クーラント バッハ
の四曲が発売されています。
また楽譜は日本楽器から、アルベニスのものとしては、「グラナダ」「セビリア」「朱の塔」、バッハのものでは「クーラント」「ガボット」「フーガ」「ルーレ」「ブレリウド」「アレマン」「ミヌエット」、アリアのものでは「オメナーヘ」、ボンセのものとしては「ソナタロマンチカ」「主題と変奏」、トルロバのものでは「ブルレガレーサ」「ソナチネ」「カステリア組曲」などが来朝前に発売されておりました。
ところでセゴビアの来朝は単なる来演というので止まったのではなくて、わが国のギター界に多大のショックを与えた事は前に述べた通りですが、このことはギターの愛好家ばかりに限らず一般にも、多大の反響をまき起したのです。
「セゴビア時代の人だ。此の時代の心がセゴビアの中に存するのだ。
現実主義は浪漫主義を抑えることは出来ない。
美に対する理想のものではなくではならない。」(堀内数三氏と野村光ー氏との対話)
また、たとえば、ロンドンのウイグモア・ホールでたった一度のリサイタルの時聴いたのですが、ロンドンでも仲々評判が良くて新聞の批評などにも大変贅めてありました。実を言うと私もこの時に初めてきいて、すっかりセゴビアが好きになったのです。
そして是非日本の人に聰かせたいと思ったのでした。」(大田黒元雄氏)
ギター愛好家ばかりではなく一般の文化人にも音楽としてのギターを目前に惹かせ、その後に津浪の如き響を与えて去った彼の独奏会の曲目は、次のようなものです。
10 月26 日(土)帝劇(東京)
1. イ.スベインの浮かれ者 ソル
ロ.セレナード マラッツ
ハ.舞曲 トルロバ
二.アレグロ バガニーニ
ホ.練習曲 タルレガ
2. イ.フーガ バッハ
ロ.ガボット バッハ
ハ.サラバンド バッハ
二.ブーレ バッハ
二.メヌエット ハイドン
3. イ.ファンダンギリオ トリーナ
ロ.民謡 ボンセ
ハ.ホ短調舞曲 グラナドス
二.物語 アルベニス
[帝劇に於ける第二夜]
1. イ.ソナチネ ジュリアーニ
ロ.主題と変奏‘ ソル
ハ.カステリア組曲 トルロバ
二.エボカシオン タルレガ
2. イ.プレリウド バッハ
ロ.アルマント バッハ
ハ.サラバンド バッハ
二.クーラント バッハ
ホ.ガポット バッハ
ヘ.ベルシウス チャイコフスキー
3. イ.セビリアーナ トリーナ
ロ.卜調の繹曲 グラナドス
ハ.カヂス アルベニス
二.セレナータ アルベニス
ホ.セビリア アルベニス
[帝劇の第三夜]では
1. イ.練習曲 ソル
ロ.セレナーデ アルベニス
ハ.ソナチネ トルロバ
2. イ.サラバンドとメヌエット ヘンデル
ロ.ブーレ バッハ
ハ.メヌエット バッハ
二.カンッオネッタ メンデルスゾーン
3. イ.ソナタロマンチカ ポンセ
ロ.舞曲 グラナドス
ハ.朱の塔 アルベニス
などであります。
彼は2 台のギターをたずさえてきました。
ラミーレスとハウゼルです。
伝うまでもなく、ラミーレスは1913 の年作。
そして絃はガットであり低音も現在わたしたちの知っている絹線であったのです。
と言うのは、その当時低音弦は銅線を用いていると言う知識しか持っていなかったものだから、絹線を用いたことは、全く意外に思われてのでした。
そのほかに、セゴビアによってわが国のギターが始めて知ったものには楽器の保持法があり、トレモロ奏法というのがあり、オクターバ・アルモニクスとかその他いろいろなイミタシオンであったのです。
これらの技術も楽器も弦も現在のギターはもちろん持っています。
しかし、当時これらを眼のあたり見たことはまことに重大な事件であったのです。
そして、それまでは教則本を読むことだけで知ることの出来なかったことが彼の実績によって明らかにされてきたのです。
それよりもなお一層大きな、そして決定的な影響を与えたのには、実に「セゴビア主義」とでもいいますか、セゴビアの主観的な趣味をそのままわが国のギター界が模倣し始めたことなのです。
これが第2 次世界大戦まで、いや今日においても、なおまだその尾を引いているのです。
セゴビアがわが国を去ったのは10 月で、その直後の11 月と翌5 年の四月に大河原義衛氏がリサイタルを開いていますが、これにはセゴビアの影響は全然見られませんでした。
セゴビアの影響がはっきりとした形となって現われるのは次の小倉俊氏の時からであろう。
昭和5 年6 月21 日、慶応大学講堂で独奏会が行なわれています。
船唄 コスト
カプリス カルカッシ
前奏曲第一番 セゴビア
ラパロマ タルレガ編
アルアムブラの思出 タルレガ
となっていますが、
同じ年の11 月に小倉俊氏はビニアスの「独奏的幻想曲」を弾いています。
これはアルアムブラの思出と共にトレモロ奏法によるもので、もしセゴビアの来朝がなければこのトレモロ奏法による両曲は演奏されることはなかったものと想像されます。
もっとも、セゴビアの影響を受けたということは、一面にはマンドリン合奏から脱却し、独自の地位を持っ費伝うことなのですが、アルアムブラの思出を演奏した時もマンドリン4 綿合奏が行わていて、ただちにギターが独立し得るにいたらなかったのは、当時の奏者の実力から判断して、何かの組合わせ、とかまたは庇護なしには出来なかったことを物語っています。
昭和5 年および6 年には、前に述べましたトレモロの2 曲が現われたのみで、セゴビアの影響が大きく現われる事は出来なかったのです。
丁度このころ、宮本金八というギターの製作家が現われ、5百円から千円までの価格で手工品を作っています。
昭和6 年2 月には東京ギタークラブ第1回の演奏会が開かれ、前述の小倉氏の門下生の第1 回の試奏会であり、ギターのみの動きが此所に始めてみられているのですが、これは必然的にきわめて貧弱な内容しかもっていませんでした。
なお、この年の6 月には京大フィルハーモニック・ソサイテイの機関紙として「楽友」が貴家健而氏を主宰として誕生して居り、仙台のアルモニア、東京の、マンドリン・ギター研究と鼎立して研究に入っています。
昭和7年になると、「名古屋ギター研究会」が中野二郎、見崎三郎丙氏によって創立され、同時に機関紙「ギター研究」が創刊されています。
また、レコードもセゴビアのものが次々と発売されて居り、更に「ミゲール・リヨベット協会」によってリヨベットのレコードも発売されました。
また、このころ秋田市の加賀谷憲一氏がきわめて急進的なプログラムをもって独奏会を開いています。
同氏は「マンドリン・ギター研究」に「現代ギター作曲家展望」としてアルゼンチンの各氏を紹介し、また折柄のわが国のギター界の保守的な現状に不満を爆発させて、これに武井守成が応酬するなど、レコードの発売、研究誌の相次ぐ創刊などと共に、ようやくセゴビアの蒔いた近代的ギターの種が成長しはじめ、何となく騒然たる様相を呈するようになって来たのです。
この加賀谷氏のもつ急進的な思想は当時のマンドリン合奏内のギタリストのもつ保守生とが真向から対立した感があり、これなどは、明らかにセゴビアによって来ったものだと思われます。
こうした傾向はこの頃からようやく明確となって、それ以後のギタリストは凡てこの風潮によって動きだしているのです。
このころ、こうした風潮とは全く別に、主としてドイツの影響を大きく受けていた「アルモニア」によって沢口忠左門氏は、永田譲氏、石森隆知氏と共に、テルツ・ブリム、の両ギターおよびバスギターの三重奏を行なって、ソル作品1 5 のソナタ及び作品1 1 の6 のミヌエット・モツアルトのシムフォニー第39 番のミヌエットを弾いているが、これはドイツ風のギター3 蔀形式をとったのでは、わが国最初のものであったのです。
昭和8 年になると北沢照子によって「ギター音楽」および月村嘉孝氏の「イ・ギタリステイ」が創刊され、門司ギター研究会、名古屋ギター研究会、福岡ギター協会、京城ギター研究会、横浜ギター研究会(北沢照子)、東京ギター協会(保坂益子)、深川ギターサークルなどの研究発表会やその他、北沢照子、保坂益子、福間日出子、一ノ瀬春子の四女流ギタリストの「ギターの夕」、北沢照子独奏会なども行なわれて、婦人の進出が行われと共にギターのみの動きがマンドリン合奏内のギタリストとは全く別な方向に進み出しているのが目立つようになり、出版物も、この状態に即応するためにギターに関する記事が急に増加しはじめ、ギターの楽譜出版も大いに輿ってきたのです。
なおこの年の4 月に、アスシオングラナバスがギター独奏と芸踊をもって東京綱場に姿をみせており、セゴビアに次ぐ外国人演奏家に接して、ファンの血を湧かせたものでした。この時の曲目は、もともとその目的が舞踊にあったために、舞踊が多く、ギターは少数にすぎなかったのですが婦人ギタリストの楽器保持法に大きな示唆を与えたのでした。
昭和9 年には前記の各団体がますます活発に活動を続け大橘済氏の「岡山ギター協会」、佐々木政夫氏の「日本ギター・マンドリン協会」が第1 回の発表会を行っています。
昭和1 0 年や1 1 年には秋山富夫氏の「函館ギター研究会」、長野努氏の「高知ギター協会」などがそれぞれ誕生し、独奏会には二宮邦夫氏、三好哲也、酒井富士夫、永田哲夫、安井五郎の諸氏が名乗りをあげ、この頃にいたって、ギターはようやくマンドリンとは全く別な道を歩む様相が確実にみられるようになり、これからが、ようやくわが国におけるギターの開花期とみることができましょう。
スペインの舞踊家、マヌエル・デル・リオとフラメンコギター奏者ホアキンロカが来たのは昭和1 2 年、この年も各研究団体も活発に動いています。
昭和1 3 年にはギターの友の会第1 回発表会、弓削多喜子氏の弦楽器とギターによる室内楽、小原ギター研究所第1 回公演などがあり、独奏会には、沢辺敏夫、長野努、溝淵浩五郎、小原安正、深沢七郎の各氏が開いていますし、コロンビアレコードでは「スペインギターアルバム」が発売され、相当広く売れています。
昭和1 6 年、対米英の空気、ようやく暗黒となり始めるとともに、音楽はすべて厚生運動に用いなければならないと伝う統制が強化されるようになってきました。
この年はすでに春こ‘‘ろから北米、南米とも、すべて通信もとだえてしまっていたのです。
この統制は全体主義における当然の副作用であり、こうした空気によって自由な発表を行うことは、きわめて窮屈なものになって来て、1 1 月には「アルモニア」「マンドリン・ギター研究」の両誌が合併せざるを得なくなってきたのですが、これは表面上、そう伝われているだけで事実は廃刊を命ぜられたも殆ど同様であったわけなのです。
しかしこの両誌ともそれに属することなく最後の努力としてバンフレットを出し、僅かながらも一つの研究とか連絡などの使命を果して来たのは、やはり認めなくてはなりません。
一方、演奏の方もいらいらした気持に追われながらも、表面はほとんど何事もないように続けられていました。
寿楽光雄、沢辺敏夫、溝漏浩五郎氏などが独奏会を開いています。
また秋には小倉俊、小原安正、高木東六の三氏によって古関祐而の「日本風舞曲」がギターとピアノによって初演されています。
昭和1 8 年になると春のシーズンのみ知られているが、それ以後は全く断絶してしまっています。
戦争は一切のものをうばってしまったのです。
人間も芸術も。
この期間、もちろん小さな発表はあるにはあったのですが、これらも、ほんの数えるほどでしかありません。
まことに不幸なことであったと伝わねばなりません。
ただしかし、このことだけは伝い得ると思います。
世界中を戦争に捲きこんだこの2 0 世紀も実際にはそんなに大きな影響を与えなかったものがあるということです。
というのは戦後、華々しく復活した音楽界を注目していただきたいと思います。
戦後は今、ふりかえってみて一つの陶汰をもたらしています。
これに陶汰された人は不幸なことですが、しかし、考えてみれば、その後からすぐに新らしい有力な人たちの誕生がある。戦争というもっとも大きな社会現象がギターに及ぽした影響は少なくありませんが、しかしそれがギターの音楽そのものの、つまり芸術には何の力をも振うことが出来なかったのです。
つまり芸術の尊さがここにあるのでしょう。
第2 次世界大戦が日本の大敗になって終るやいなや、わが国のすべての文化活動は停止してしまったことは、すでにご承知のことと思います。
音楽だけに限らず、文学も美術もその他のあらゆる文化や芸術が、食糧不足と社会不安とによって、芸術活動の余地を全く与えなかったのです。
戦争中におけるわが国のギタリストの大半は、ギターを捨てさせられて軍隊から戦地へ、あるいはハンマーやヤスリを握って軍事工場へ強制的に入ることになり、またそれでも、ほんのわずかの人々なのですが少数のギタリストは『日本音楽文化協会』によって、わずかに合唱、あるいは他の器楽の伴奏用として、軍や工場の慰問を行うという活動を得たにすぎず、これまでに得た技裕はまった<何の役に立たなかったと伝ってよかったのです。
敗戦後の社会不安は、ただ、生存のためにギタリストたちを狂奔せしめてしまい芸椒活動は全く停頓してしまいました。
これはギターに限らず、すべての芸術もそうですし、そのうえ戦後、最初に行われたギター音楽の会は小原安正と寿楽光雄氏による二重奏の会で終戦直後の昭和20 年秋に二夜にわたって、ソル、アルベニスを中心として開かれていますが、聰衆は僅かに30余名というまった<惨憔たるものであったのです。
大阪でもやはり12 月に西田二郎氏のリサイタルが行されていますが、当時の社会情勢のもとでは、そして不安定であった当時の人心を思えば、これまた、東京での時と同様であったのではないかと想像されます。
昭和2 1 年になると、わずかの人たちが独奏会や研究会を開いたのですが、他の人たちは全く沈黙を守ったまま、ギター界の復興もいまだしと思わせていたのです。
戦時中情報局の出版統制令によって「アルモニア」と「マンドリン・ギター研究」は合弁し、バンフレットを出していましたが、戦争の激化と共に発行を停止し、戦後は研究誌皆撫の状態となっていたのですが、この年の暮には小原安正氏によって「ギタルラ」が創刊され、ギター専門の市販誌として初めて世の中に出ました。
このことにより、順次、全国のギタリストとの連絡もとれ、各地に疎開したりしていたギタリストの各氏の所在も確かめられるようになり初めたのです。
もっとも、この年の「ギタルラ」の創刊の少し前に、中野二郎氏の「ギター・マンドリン界」が複刊しています。
昭和2 3 年の正月と4 月には小原安正氏が名古屋をはじめとする各地(演奏旅行)各地のギタリストに大きな刺濠をあたえたので、各地で演奏活動もようやく開始の機運を見せ始めてきたのです。
6 月には、中野二郎、長野努、西田二郎、上田耕司、吉田禎男、鳥井諒二郎、縄田政次郎、近藤恒夫、三好康伸の各氏が大阪市に会合し「教育用楽器」としてギターを学校の義務教育に採用せしめるための運動を起す決議を行っています。
このほか、西田二郎、アカデミア・ギター・サカイ、名古屋ギター・マンドリン協会例会、岡山ギター友の会、上田ギターアンサンブル、守山ギタルラ研究所などが夫々、着実に発表会を開いて、ようやく、ギターの復興期に入ってきたのです。
2 3 年秋にはギタルラ社によって始めて4 分の3 の教育用ギターが製作されています。
小原氏が三度目の演奏旅行をこころみ、秋には、溝漏浩五郎、寿楽光雄の両氏も夫々独奏会を開いているのです。
昭和2 4 年1 月には上田耕司氏によって「ギタリスト」の創刊を見、3 月には小原氏の4 度目の演奏旅行が行われています。
大阪では近藤敏明氏が清新なブログラムで独奏会を開いて注目を浴びています。
そして特筆すべきことはこの年の5 月、「ギタルラ社」の主催で、わが国では最初の試みである、全国ギターコンクールが行われていて、第1 回には阿部保夫氏が選ばれています。
この時の課題曲はソルの作品22番ソナタの第3 楽章、メヌエットであり、その他、各人の自由選択曲もあったのです。この時、一位に入賞した阿部氏は、自由選択曲として
セレナータ マラッツ
アルアンブラの思出 タルレガ
を選んでいます。
なお、5 月23 日には中村登世子女史の演奏会が行われましたが、この時にはジュリアーニの協奏曲が東邦で初演され、大きな反響をよんだのでした。
また、数年におよぶ戦争のため、海外の情況は全く判らないままの状態であったのですが2 2 年2 月には、MVTR の放送でセゴビアの演奏がきかれ、セゴビア健在なりと異常な感濠を与えたのでしたが、その後の通信によれば、セゴビアは戦火をさけてアメリカに滞在していたということでした。
楽譜は米国の占領下にあったので当局の許可のない限り、著作件の問題もあって新らしい曲は全く出版することができなくて、僅かにそういった限界をこえたところの範囲内での古いものが出されていただけで本格的な出版物も現われていなかったのですが、最近になって、続々新らしい楽譜も本腰を入れて出版されるようになり、全国のギタリスト、ギター愛好家を喜ばせています。
戦前は輪入だけに頼っていたガット弦は全く入手することが出来ず、テグス、絹、あるいはブラスチックなどによる代用品で我慢していた頃もあり、それらのぢ要否の製作もなかばかさかんになってはいたが、一時は全く粗悪なものが出回って、一般的に困らせていたものですが、いまでは輪入も、あるいはまた立派な国産品も出回るようになり、これまた愛好家を喜ばせている。
スチール弦は、もともと戦前からの国産品もあったので、この点の復興は案外早かった模様です。
2 4 年5 月には、かねてから懸案となっていた小学校および中学校の義務教育の音楽の教育に、器楽合奏の正科に入れる運動がなされてきていたのですが、春になって、ようやく決定し、26年の秋から実施されていて、このことは今後のギターの方向のみならず、日本の音楽会の方向にも大きな問題を与えることになり、これは非常に有効なことだと思われます。
思うに、昭和4 年ごろから今次大戦の前後を通じ、約1 5 年におよんで、巨人セゴビアの後を追っていたにすぎなかった、わがギター界も、そういった風潮からようやく脱却しようとして、それなりの努力をつみつつあるのです。
さてこんご、わが国のギターがどの様な形となって成長するか、これはおそらく楽観視してもいいのではないかと思われます。
ギターがわが国に渡来して約70年、その間の種々な様相とわが国のギターの歴史を述べてきたわけですが、このあたりで筆を次に移しましょう。』
[*転載]:『ギター古典の薫り 第6号』digitalguitararchive/1986-06-JGS[JOURNAL OF THE JAPAN GUITAR SOCIETY VOL.6] / P.8 - P.16