横尾幸弘 Yuquijiro Yokoh
- [1925年(大正14年)~2009年12月(25日]
大分県日田市川原町の横尾紙店で7人兄弟の3男として生まれる。
- 1947年10月25日 横尾幸弘独奏会 於 隈会館(日田市)
- 1956年11月26日 キョーオン演奏会 横尾幸弘・大沢絆・中里一・小原二郎・京本輔矩
- 1957年6月22日 横尾幸弘・京本輔矩合同演奏会 (東京)
- 1958年11月18日 新日本ギタリスト連合演奏会 (東京)
- 1959年9月28日 横尾幸弘・京本輔矩門下生発表会 (東京 丸の内ホール)
- 1959年11月4日 横尾幸弘ギター教室ギター合奏の夕 日仏会館(東京)
- 1959年11月9日 横尾幸弘独奏会 山葉ホール(東京)
- 1960年9月5日 横尾ギタースタジオ発表会 (東京)
- 1986年(昭和62年)より 現在の住まいに移る。妻と次女夫婦、2人の孫と生活。
■作曲 編曲
- ◇国際版標準ギター教則本 (国際楽譜出版社)
- ◇ギター名曲選 上巻・下巻 (国際楽譜出版社)
- ◇ギターによる世界の旋律 (国際楽譜出版社)
- ◇問答式ギター独習 (国際楽譜出版社)
- ◇ギター101曲集 (共楽社)
- ◇やさしいギター教本 (国際楽譜出版社)
- ◇2重奏曲集 (国際楽譜出版社)
- ◇3重奏・4重奏曲集 (国際楽譜出版社)
- ◇ポピュラーギターの名曲集 (国際楽譜出版社)
- ◇横尾幸弘ギター作品集 (現代ギター社)
- ◇他
[※出典]横尾幸弘ホームページより
■ギターに魅せられて
『中学3年のとき京都の学校に行っていた兄がギターを抱えて帰ってきた。
それがギターとの 初めての出逢いとなった。
その美しい音に【魂を奪われた】という表現は僕にとって決して過言 ではありません。
以来ギターにかじりつき誰に教わることもなく今日まで音楽を続けてきましたが、 当時は戦争の最中、ギターに夢中の僕は親の勧める京城歯科医専(現在のソウル大学歯学部)に入学。
周囲に猛反対されながらもギターへの思いが強く遂に中退、そのころ(母に捧ぐるソナチネ)と題名を 決めて取りかかった曲を途上にして戦地(満州)に赴くことになりました。
死を覚悟していた戦争が 終わって我が家に戻った時、母は風呂敷にくるんだギターをそっと差し出してくれました。
あんなに反対していた母が大事をとって お寺にギターを疎開してくれていたのでした。
それは例えよう のない大きな喜びでした。
その後(母に捧ぐるソナチネ)を完成。24才でした。』
■あしあと・評論
◇1959年(昭和34年)アンドレス・セゴビア来日の際は国内のギタリスト らと共に友好を築いた。
セゴビア来日決定を機会に独学でスペイン語を始めた。
◇戦後日本のクラシックギター界ではじめてリサイタルを開く。
◇作曲活動にも力を注ぎ、中でも「さくら変奏曲」はその芸術的な完成度の高さ から世界的に有名になる。
ジョン・ウィリアムス、イエラン・シェルシェル 、アンジェル・ロメロ、エルネスト・ビデッティ などもアルバムに取り入れて いる。
◇作曲以外にもモーツアルトなど海外のクラシック音楽をギター曲に編曲し、楽 器の可能性を極限まで追い求める独創的な作品は曲集として数多く出版された実 績が多いことでも知られている。
◇「埴生の宿による主題と変奏」に用いられるダブルトレモロは横尾幸弘が開発 したもので、他に例がなく2本の弦にまたがる重音の響きの美しさは比類しない 。
◇横尾幸弘の作品に出てくる記号(√)ルートは彼が考案したものでこの記号に より幅広く高度な演奏が可能となった。
◇手書きの楽譜の美しさは、彼の持つ芸術性・感性をより深く感じさせる。
◇サインにあるトレードマークにはイニシャル“ Y・Y“ が隠れており、ギタ ーを持つ手が表現されている。
◇東京医科歯科大学、学習院大学、国際商科大学、立教大学 などでかつて講師 を務める。
[*出典]: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[*出典]:横尾幸弘 Yuquijiro Yocoh Web Site