March 27, 1959 Carlos Montoya Concert at Sankei Hall 力ルロス・モントヤ演奏会 産経ホール





[*転記]:digitalguitararchive/1959-02-No.18.pdf/P.12
カルロス・モントヤ紹介
ジブシー族の出身でマドリード生れ。
フラメンコのギタリストとしては世界最高の存在で、後継者がないといぅ位卓越した演奏技術の持主である。
スペイン陸軍へ、ラ馬の売込みをしていた父親は、彼が2才の時死亡、伯父にあたるラモン・モントヤは名高いフラメンコ・ギター奏者であったが、彼は教わることなく独学だった。
後ペペ・バルべーロに師事。

カルロスは8才で、すでにギター奏者の実力を発揮し、14才の時には、マドリードのカフェでギターをひいていた。
18,9才の頃の彼は郵便局や裁判の書記として働き、夜にはカフェでギターを演奏するといった生活であった。
その後、彼はスペイン領モロッコで、ムーア人との戦場に、士官として3年間勤務したが、戦いの合い間にも、敵味方の区別なく、ギターを弾いて楽しませた。
軍隊を辞し、ヴヱノス・アイレス生れの有名なスペイン舞踊家ラ・アルヘンチイナのギター伴奏者として、欧州一周旅行に招かれた。
これによって、スぺイン舞踊の素晴しさが世界中に宣伝された。
つまり、これが今日全盛をよぶバレー・エスパ二ョールのはじめであった。

1933年には、フラメンコ舞踊家として名高いテレシーナと共に、アメリカから日本に訪れ、各地で公演演したことは記憶されている人も多いであろう。
1938年、南米旅行から二ューョークに着いた時第2次大戦が勃発、そのままここの都市の住人になっている。
1940年、パリでスペイン舞踊家として活躍していた現夫人トリアニタと結婚、二人の間には、二人の息子が生れた。
彼は数回にわたり、合衆国の各都市を演奏旅行しており、ロスアンゼルスのフイルハ—モニック・オーデイトリアム、ニユーヨークのタウン・ホール、サンフランシスコのミユージカル・オぺラハウス、ワントンのコステチユション・ホール、ニユーヨークのカーネギイ・ホール等、数千人の収容ある大ホールで開いたリサイタルでも、満員の盛況をよんでいる。
NBC放送ではソリスト、又はホセ・イトルビ指揮のロチェスター・シンフォニーの独奏者としても活躍。
フラメンコの芸術は歌と踊りとギターの三つが切り離せないものとされていたが、彼はギターだけの独立した音楽を開拓し、新しい分野をきりひらいた。彼はそのため、卓越した演奏技術を修得した上、常にカンテ・フラメンコの新しいレパートリーを作りあげている。



1959年3月27日 力ルロス・モントヤ演奏会 産経ホール

[*左より]:伊藤日出夫・勝田保世・永田文雄・芦原英了・高橋武子(高橋功夫人)・カルロス・モントーヤ・伊藤トリオの方・伊藤マリ子

[*挿画]:digitalguitararchive/1959-06-02-Armonia/P.29
1959年(昭和34年)3月27日 東京産経ホール





■勝田保世(しょうだ・ほせ (1907年5月?日-1978年5月3日) 本名:勝田忠次郎)
  • 1907年5月生まれ。
  • 東洋音楽学校を経て1930年5月にイタリア、スペイン、フランスに音楽研究のため渡る。
  • スペイン内戦(1936年夏に勃発)の最中に、フラメンコの地であるアンダルシーアに入っている。
  • ※「砂上のいのち フラメンコと闘牛」1978年 第1刷発行 音楽の友社
    ※[詳細は下記をご覧ください]
    戦後日本におけるフラメンコ・ギターの導入・受容・展開 : ギタリスト勝田保世の果たした役割 / 山村, 磨喜子
    https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81010290/81010290.pdf


    ■芦原英了(あしはら えいりょう、1907年1月9日 - 1981年3月2日)
    音楽・舞踊評論家。本名、敏信。親戚に小山内薫、藤田嗣治(伯父)がいた影響などから、幼い頃からヨーロッパの劇場芸術に関心を持ち、戦前の日本で“シャンソン”という言葉を定着させたシャンソンとバレエの評論家。
    昭和10年代、六番町15の桃園学園のあたりに、山月房アパートと呼ばれる集合住宅があり、そこに住んでいた。
    戦前、すぐ近所の生んでいた藤田邸に頻繁に出入りしていた様子は、彼自身の「半自叙伝」にくわしい。
    没後、大衆芸能を対象とした蘆原英了賞が創設された。
    余談ながら、著名な建築家の芦原義信(1918-2003)は英了の末弟。
    出典: 麹町界隈『わがまち人物館』


    ■伊藤日出夫(いとう ひでお、1932年5月27日- 2017年5月6日)
    伊藤日出夫のオフィシャルサイト「伊藤日出夫 バイオグラフィ」として年表作成されています。
    https://nagasaki-ya.com/aire/hideoBio.html




    Revista-de-Guitarra-1959-04/-No.19P.23

    3月25日来日したフラメンコギター の名手、カルロス・モントヤは20日間の全日程を盛会に終り、トリアニ タ夫人と共に4月15日帰国の途につかれた。 モントヤの日本に於ける公演日程は次の通りだった。
    • 3月26日 歓迎会
    • 3月27日 東京産経 ホー ル
    • 3月28日 大阪産経会館
    • 3月29日 岡山 葦川ホー ル
    • 3月30日 日本テレビ放送
    • 4月1日 新潟市公会堂
    • 4月3日  京都 弥栄会館
    • 4月4日 神戸新聞会館
    • 4月5日 東京ビデオホー ル
    • 4月7日 神奈川県立音楽堂
    • 4月9日 札幌公楽劇場
    • 4月10日 函館公楽劇場
    • 4月11日 秋田記念館ホール
    • 4月12日 NHKテレビ放送
    • 4月13日 東京産経ホール
    • 4月14日 東京産経ホール


    • モントーヤ夫人・カルロス・モントーヤ

      [*挿画]:digitalguitararchive/1959-06-02-Armonia/P.
      1959年(昭和34年)3月27日 東京産経ホール




      モントヤ師匠のリサイタル       伊藤日出夫( 東京)

      3月25日モントヤ師匠が来日した。25日のレセプション、又翌26日の歓迎会(ギター連盟と中日新聞のレセプション)の後、いよいよ27日に、産経ホールで世界最高と云われる力ルロス・モントヤ師匠のリサイタルが開かれた。
      写真よりずっと若く見えるモントヤ師匠がステージに現われると、大変な拍手である。
      と云うのも、この頃のフラメンコ熱が相当なものであると云うことと、世界最高と云われるモントヤ師匠自身の魅力によるものであろう。
      曲目は、一部としてラ・ローサ、ファンダンギリヨ、グワヒーラス、タランタス、ティエントス、セギリージャ・ヒターナ、べルディアーレス、プレリアス、そして夫人であるトリアニータさんの舞踊が、サパテアードとプレリアスであった。 2部として、アレグリアス、サムブラ、サエタ、タンギリョ、グラナディナス、ファルッカ、ホタ、そして又夫人の舞踊がファルッカとセビリアーナスの二つ、アンコールとして、古賀政男作曲の古いなつかしい「酒は涙か溜息か」左手のみのスケール、そしてサムブリージャが奏された。
      この日の演奏は、全体として非常に1曲1曲が短かかった。
      サエタにしても、レコードのものはもっと長いし、あらゆる曲ももっと情熱的で盛り上がりが見事なのであるが、この日の演奏は少し気が乗って居なかった様である。
      と云うのも、我々聴衆が余りにもフラメンコを聞くに慣れて居らず、クラシック音楽を聞く様にかしこまって居たからであろう。

      元来フラメンコはギター、唄、踊りの三拍子に合わせて聴衆が一つの要素となって居り、聴衆が雰囲気を作る手助けとならぬ限り真の醍醐味は出て来ないものなのである。
      その上、モントヤ師匠はアメリカに居て成功した芸術家であるから、アメリカ人の気質を良く知って居り、アメリカ人に歓迎される様な弾き方をして居たが、日本人はもっとフラメンコの生のままに近い演奏をしても、かえってその方が喜ばれるのではないかと感じた。
      いたずらにテクニックに走らず余韻のある弾き方をタランタスやセギリージャやグラナディナスの時などして欲しかった。
      しかし、彼のテクニックは斯界最高のものである。
      記者会見の折とリサイタルの始まる前の楽屋での練習と、近くで手を見つめて居たが、音の流麗さ、アクセントの見事さ(このアクセントに於て我々のリズム感ではついてゆけない) 、強いフラメンコ特有のアポヤンドのあざやかなことなど、見て居て唯驚くばかりであった。
      交互弾絃はiとm の2本丈であり、ラスゲアドは殆んど小指を用いず、音はダイナミックでありながら柔かい音である。
      三絃にまたがるレガードなど1本の指でかるくとらせ乍ら、柔かに出す様に努力して居り、無理に強く弾かなかのはフラメンコと云えども美しい音を出すベきだとつくづく感じさせられた。
      もっとも、楽器が良いのでこう云ったことも無理がなく出来るのではあるが。
      ともあれ、モントヤ師匠の芸術はジプシーの伝統たるフラメンコの近代化であり、国際的に普及せしめるに足る、ステージでの演奏ぶりは現実にフラメンコの近代化に成功して居ると云えよう。
      或る人々はフラメンコの純枠さを尊ぷかも知れない。しかしそれは、それで良いのであり、このモソトヤ師匠の進み方も一つの方法である。どちらが良いとも云えない、聞く人の主観にまかせるべき問題である。
      だがモントヤ師匠の如くステージで、それも大きいステージであれだけの聴衆を魅了する演奏家は、非常に少ないのではないかと思われる。その意味で、彼、モントヤ師匠は立派な芸術家であると云えるだろう。
      しかも芸人根性をもった。---芸人根性のない自己満足だけでもって居る芸術家は、何の存在価値もないのである。
      トリアニタ夫人も良く踊って居られた、カスタネットはレコードで聞く方がお上手であるが、これは動きが伴うと叩くのがむずかしくなるからで、無理のないことなのである。
      ツポを時折はずして居られたが要所のきまりと雰囲気は、モントヤ師匠の夫人だけあると思った。
      だがである、余りにも、つまり余りにもモントヤ師匠がうますぎるのである。
      終りにモントヤ師匠夫妻の人柄の良さ、素朴さ、見栄や気取りのない自然な態度、これを讃美しておこう。


      [*挿画]:digitalguitararchive/1959-06-02-Armonia/P.21-22







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