Akira Kawase: Recital in Nagoya in 1925
1925年(大正14年)5 月22 日『川瀬晃独奏会』名古屋で初めての独奏会
[*挿画]:digitalguitararchive/1959-47-ギターの友/P.11
[*前列左より]:3人目 伊藤弁護士、中央 川瀬 晃 (大阪の住友肥料に勤務)、7人目 中野二郎、右端 河合 博(八校在学中)
[*後列左]:景文堂 主人
[*後列右]:ミハエリス教授 (名古屋医大講師)
『川瀬 晃 のこと』 中野二郎 より |
武井守成が本邦における古典ギター曲の最初の認識者、紹介者、鼓吹者と云ってよいので、先号にその片貌(へんぼう)を書いたのであるが、永年続いたその詩「マンドリンギター研究」は昭和18年11 月で終息し、今となってはその説くところとうん蓄を知る人の少ないのは遺憾である。 この武井守成より少しおくれて大正の終りから昭和の初期にかけて、古典ギター曲に耽溺(たんでき)と云って悪ければ没入した一人のギタリストのことを書いておきたい。 その名を川瀬 晃と云う。 かつて現代ギター誌に小西誠一が 「日本ぎたあ史」で彼のことにも触れているが、それは記録の上から識ったことで彼、川瀬 晃と直接交友があったわけではない。 当時彼は大阪の住友肥料に勤め、傍ら 松井竜三を中心とするクワルテット・プレットロ・ドマーニに所属し、その一翼を担ってはいたが、むしろギター独奏に重きをおきしばしば独奏会を開いていた。 筆者との交友がどうした切っかけであったか思出せないが、彼が三重県桑名の出身であり、この桑名に大正12年から3 年にかけて筆者がそこの同好者に指導に赴いた時期があり、彼のうわさを初めて耳にしたのである。 彼ら同好者は異口同音に彼のことを大・ボラとか大風呂敷とか半ば笑をたたえて揶揄的に云うのである。 筆者も当時はそうした先覚の士に餓えていた時なので彼らの言をそのままは信じかね、彼の住所を知って交友が始まったように思う。 そこで初めて彼が大ボラでも大風呂敷でもなく、彼の抱懐する「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」の気慨を知ったのである。 急速に書信のやりとりが始まったのは云うまでもないが、この頃名古屋の伊藤景文堂を通じて英国のボーンからギター名器の写真目録を取り寄せ、そのうち川瀬はスタウフェル、河合はラコート、筆者はパノルモを同時に入手したのである。 後日談になるがこの川瀬の入手したスタウフェルは後年、溝淵浩五郎の手に渡り自賛惜く能わざるものであったが、演者の手許には輸入当時の値段その他詳細の記録が残っているが溝淵自身はその経緯については知らないようであった。 彼、川瀬 晃は大阪の町中に下宿していたが、その部屋は土蔵の中に畳を敷き、そこに寝起きし、黙々とギターを弾いていた。 一方古典の初版楽譜を探索蒐集し、丹念に整理して木箱に収めていた。 土蔵をすみかとしたのも、音のもれないことと火災に対する配慮からではなかったかと思う。 彼の足跡を先ずたどってみよう。 大正12 年10 月13 日、大阪大江ビルでドマーニ主催で彼、川瀬 晃と石川俊三でソル、ジュリアー二の作品でジョイント・コンサートが開かれている。 1 .二重奏 慰楽曲 Sor 作品34 2. ソナタ Giuliani 作品15 (K) 3. コンサート用曲 Sor 作品54 (I) 4 .カンツネッタ Giuliani 作品147 (K) 5. 第二幻想曲 Sor 作品4 (I) 6. 二重奏 大変奏曲 Giuliani 作品35 (K) 川瀬 晃、(I) 石川俊三 大正13 年5 月17 日、大阪大江ビルでドマーニ主催で、同じく川瀬、石川によってカルカッシとメルツの作品でジョイント・コンサートが開かれている。 1. トラ・ラ・ラ変奏曲 Carcassi Opl5 (K) 2. 変奏曲可隣 Mertz Op13 -7 (I) 3.a アンダンテ・マエストーソ Mertz Op1 (K) b 不安 Mertz Op13-2(K) 4. 月光変奏曲 Carcassi Op7 (I) 5. タランテルラ Mertz Op13 -6 (K) 6.a ロマンツ11 Op13 -1 (I) b 行進曲 Carcassi Op25 -8 (I) 大正13 年11 月15 日のドマーニの演奏会では川瀬はギター独奏としてフェルレルの湖上の夜をー曲弾いているのみ。 大正14 年5 月22 日、彼、川瀬 晃を筆者が名古屋に招き愛知県商品陳列館で独奏会を開いた。 1.我がノルマンディ Carulli 作品364 2. 別れ Sor 作品21 3. a 狂想曲 Legnani 作品 b 習作曲 Coste 作品 4. 瑞西風主題と変奏 Carcassi 作品44 -3 5. a 夜曲 Mertz 作品 b 諧謔曲(かいぎゃくきょく) Mertz 作品 6. 民謡と変奏曲 Giuliani 作品147 大正14 年11 月28 日、亡くなった同僚、石川俊三の追悼演奏会が開かれ比処で川瀬はブロカの友情を独奏している。 改元された昭和2 年5 月7 日大阪大同生命ビルで開かれたドマーニの演奏会で彼、川瀬はジュリアーニの導入曲を持てる主題とその変奏曲(作品番号不詳)を弾いている。 昭和2年10月8 日、大阪土佐堀青年館でドマーニ主催による「ギターの夕」にギターの佐津川 渉とピアノの西田桂太郎と共にに下記のものを弾いている。 1 .ギターニ重奏 a ボレロ Ferrer 作品39 b 導入曲とロンド Carulli 作品302 2. ギターとピアノ バラ色に輝く楽しい日に Neuland 作品11 3 .スイスの主題による 6 つの変奏曲 Hunten 作品 4. ギターニ重奏 第一慰楽曲 Sor 作品21 5. ギターニ重奏 フンメルのアダジオとアレグレットを主題とせる変奏曲 Carulli 作品160 6 .ギターとピアノ ロンドレット Blum 作品38 7.a ガボッタ Romero 作品 b スペイン舞曲 Mertz 作品 8. ギターニ重奏 セレナータ Carulli 作品96 -2 3 .の独奏者が明示されていないが彼の所蔵譜の中にHunten の珍しい初版譜があるから彼、川瀬であろう。 同年同月22 日、京都同志社大学マンドリンクラプに招へいされて同じ同じプログラムに新にペトレッティのロシア旋律の幻想曲が1つ加えられているが恐らく彼が弾いたものであろう。 この前後筆者も彼に招かれてその頃のJOBKで彼のギター伴奏でマンドリンを放送した覚えがある。[*管理人追記:JOBK(NHK大阪放送局)] このあたり[*]から彼の消息は全く途絶えて了った。[*管理人追記:1927年10月22日の頃から] 地元に在って彼の消息を筆者などよりははるかによく知っていたはずの 松井竜三、小泉勇二、鳥井諒二郎、縄田政治の諸士は既に故人となり聞き出すすべもなくなっているが、愛蔵の楽器・楽譜が人手に渡っているところは既に故人になって久しいと見なさなければならない。[*管理人追記:1983年時点] 戦後筆者は彼の仲間の一人であった夕田某を訪れ彼の許に保存されていた数々のギター楽譜を一覧したことがあるが、その後どうした経緯があったか知れないが之が大阪の三好楽器に委託され、再に東京の小原安正の手に移り競売された。 この時まだ武井守成は健在であり[*1]筆者もその一部を購入した一人である。 彼が活動を停止して了ってから既に半世紀余になり、愛器スタウフェルが溝潤浩五郎の手に渡ったのも既に久しい昔で、あれほどの執念に燃えた者が命ある限りギターを断念することは筆者には考えられない。 が寄怪なことは終線前後名古屋の放送局気付で筆者宛の長文の手紙がとどいたことがある。 全々署名がないのである。 筆者は当時応召その他で人材乏しく放送を通じて最も活動していたので、それに対するねたみと受取ったのであるが、誰であるか全く心当りが無く、それを探索する気もなかったのであるが、その筆跡から永らく消息を断った川瀬晃ではなかったかという疑念が未だに去らない。 [*1]:武井守成 [1890年-1949年] [*転記]:digitalguitararchive/1983-03-JGS.pdf/P.93-95より |
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名古屋 川瀬 晃 独奏会 |
同好の士の中で特に熱心だった者が自然に親しさを増していった。 その頃大阪で盛に活躍していたギタリストで川瀬晃がいた。 桑名出身で大阪の住友肥料に勤めていたが、二郎が偶々桑名の同好者の指導に行っていた関係で、よくその評判をきくので会ってみたいと思っていた。 桑名では「あの大風呂敷」と言はれていた、が二郎には決して大風呂敷とは受取れなかった。 文通してみると成程「燕雀何んぞ大鵬の志を知らんや」の気概があった。 行ってみると下宿では土蔵の中に特製の書棚を置いて古い楽譜を秘蔵し古典の研究をしていた。 他のギタリストがタルレガのカプリチョ・アラベに夢中になっている時彼だけはカルッリ、カルカッシ、ソル、ヂュリアーニ、レニアーニばかりやっていた。 ボロボロになった古い楽譜を見せて『日本に一つしか入らなかった』と言われて二郎は正直羨望に唾をのみこんだ。 一歩先んじていた。 如何ようにして楽譜を手に入れるかは決して明かさなかった。 勿論楽譜は門外不出であったし、解り切っているので貸してくれとは言い出せなかった。 然し二郎はそうしたお蔭でどれだけ闘志を燃やしたかわからない。 二郎は彼を招いて名右屋で初めてギターの独奏会を開いた。 当時はギターの面でも「マンドリンギター研究」がとゆうより武井氏が斯楽をリードしていたが、彼だけは独自の道を歩いていた。 プログラムに現れるものも皆誰も親しんたことのないようなものばかりだった。 ロッチのタルレガ教則本がアメリカで出版されて間もない頃で皆そちらに眼を奪はれ、古典等は見向きもしない中で、古典ギターの研究的な独奏会を開いていった。 コスト、メルツのものを最後に中絶して了ったが、その頃のMG誌には武井氏の評が出ている。 その頃の名古屋の専門学校(高エ、高商)医大、八高には夫々マンドリンクラブがあって熱心な者を中心にお互に技を競っていたが流石に楽器に夢中になって学業を放ったらかすような者はいなかった。 従って二郎は凡てにあきたらなかったが、八高の河合 博だけは違っていた。 大きな病院長の御曹子で考えていること、やることが他の学生の趣とは達っていた。 素人劇のバックに流す音楽の演奏を共にしたのがきっかけで次第に親しくなっていった。 二郎の貧乏生活を見て「音楽の勉強は楽学でなければ駄目」とゆうようなことを平気で言った。 少しづつわかりかけた二郎はこの言葉には真底打ちひしがれて了った。 背水の陣をしくつもりで絵具も筆も友人にやって了った二郎は、今更自分の志を変えることが出来ようか。 冷い布団の中にもぐり込むと二郎は幾日もこの到底のがれることの出来ない壁のことを考えて暗胆とした。 然し二郎のゆく道が他に何があろう。 人は人名を為さんとして始めたことではないのだから自分は自分に与えられた運命のもとで音楽をやって行こうと次第に落付きを取り戻していった。 但しどんな結果になろうと後悔しないことを幾度も自分に言いきかせた。 第一次欧州大戦直後(*1918年11月)、名古屋の中心地に伊藤景文堂とゆう楽器店が小さな店を持った。 専ら楽器や楽譜の直輸入をやっていたので二郎は限々出かけてギターやマンドリンの楽譜の輸入を促した。 次第に楽譜が入るようになると熱心な者達はよく此処で顔を合はせた。 二郎が川瀬晃を招いてギターの演奏会を開いてから河合博と三人は急速に親しさを増していってよい楽器を何とかして手に入れようとゆう相談が煮えていった。 先づ景文堂を通じて、英国のボーンから名器の写真を取寄せた。 シュタウフェル、ラコート、パノルモ、リース他二十数種あった。 値段はいづれも20磅(ポンド)から30磅(ポンド)であった。・・・[*註]当時:1ポンド≒2.4万円 二郎は勿論金のあてはなかったが何としても手に入れておかねばならないと思った。 三人は鳩首夫々の楽器を撰んだ。 川瀬はレゴンデイがその門弟ガイスフォードに与えたシュタウフェル、河合はジュリアーニの高弟ホレッツキイの使っていたラコート、二郎は.パノルモであった。 二郎が金のあてもないのにそうゆうことをしたのはあとにも先にもないがこの時ばかりはそうしなければいても立ってもいられなかった。 凡てを擲(なげうつ)ってそれを志す者がそうでない二人の後えに立って見送らねばならないことは到底耐え得られることではなかった。 然し二郎にはどう逆立してみたところでそんな金のエ面が出来るわけがなかった。楽器を待っ心と、一日もおそかれと願う心が烈しく相剋した。 河合の広い家で荷が解かれた時三人は夫々の楽器を手にして興奮した。夫々に秘められた百年の歴史を想った。夫々の音色があった。 荷造りの不備で街んでいたり修繕のあとはあったが、駒にも絃巻にも形にも見慣れた安物とは雲泥の差があった。 二郎は楽器をかき抱きたい気持だった。 然し二郎は現実にこの楽器を持って帰ることは出来ないのだと思うと次第に憂鬱になっていった。 大凡そを察した河合は「代金は母が払ってくれたから持って帰りなさい」と言った。二郎は信じられなかった。 ひとこと母に挨拶してくれればよいと言った。 二郎はそれまでに色々な人から「東京に出るとよい」とか「一度イタリーに行ってくることだ」等と何度言われたか知れないが実質的に援助を与えられたことは一度もないので自分の耳を疑った。 神未だ我を捨てたまわずの想いだった。 別に神を信じていたわけではなかったが、河合の好意を思うと二郎は涙のにじみ出るのを抑えることは出来なかった。 おのが意向に添わなければ見向きもしない親戚等とは何という距りだろうと思った。 二郎が深刻に惑謝の意を表したら河合は笑って「そんなに負担に思わなくてもいいんだよ」と言ってくれたが二郎はいまだにこんな経験は例外だと思っている。 河合は東京の大学に去りエトワールに入っていたが、その年マンドリンコンコルソに優勝したので名古屋に招いての演奏会には二郎は根かぎり奔走した。 もみあげを長くのばした田中という指揮者がハデな指揮をしたが、チェロの斎藤、指揮の近衛などという人のイキがかか っているだけその頃のエトワールは立派であった。 大正十四年の終り頃リュートとマンドリンの名手ラファエーレ・カラーチェが来朝した。 後に自殺した近藤柏次郎をピアノ伴奏者として名古屋でも公演したので、二郎はピアノの譜めくりを仰せつかった。 各地の公演続きでカラーチェの指は見るも無惨にひゞわれていて血が滲み出ていた。 リュートでひどく指が荒れるのであろう。 どうしたわけかステージで急にカラーチェが伴奏者と楽屋に引込んで了った。 二郎は所在なさにそこに置いてあったカラーチェの楽器を羨しそうに眺めていたら突然拍手が起こった。 どうゆう意味か知ないが二郎に向って拍手しているらしいので二郎は完全にてれて了った。 楽屋では顔なじみになっていた大正琴の発明者の森田吾郎氏が「私がイタリーに行けるように話をしてやる」と言うので半信半疑でいたら、二郎を呼ぷのに右手の人さし指を上向きに曲げて、Come hereと言いカラチーエの前では何も言えないので二郎は馬鹿ばかしくなった。 若い頃川上貞奴について欧米を廻ったらしく何かにつけてアチラではと来たがしやべれるわけではなかった。 プログラムのノクターンを見て「ははア之は戸を叩く音をもとにして作った曲だナ」と独り合点していた話は有名である。 然し日本の笛はよくし、天性音の出るものを工夫することが好きな人のようであった。 神信心に厚く大正琴で新築した家は椽も高く端のそり上った手すり等があってお社そっくりだったが、好人物で自分の言ったことに責任の持てるような人ではなかった。 マンドリンの智識がそれ程あるとは思われないのに「マンドリンの勉強はイタリーでなければ駄目だよ君」と言いカラーチェにつかせてやると言うので本当か知らんと二郎は思ったが来て見ればそんな有様で、カラーチェが去ってもヶロンとしていた。 二郎にとって嬉しがらせは言ってくれない方がましであった。 人はみなそんなものと考える方が無事であった。 後年二郎が人生いろはかるたを思いついた中に「期待は失望のもと」というのがあるが、失望したくなければ期待しないに限る。 二郎の淡い期待は片端から崩れて一っも実りそうなものはなかった。 1959-47-ギターの友/p.12-P.13 |
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