April 29, 1933 Keio University Mandolin Orchestra Concert in Sendai
1933年 慶応義塾マンドリン倶楽部とArmonia
左側から
3人目:石森隆知氏(Armonia)、4人目:永田譲氏(Armonia)、5人目:澤口忠左衛門氏(Armonia)、6人目:服部正氏(指揮)、7人目:矢追婦美子(独唱)
[*挿画出典元]:digitalguitararchive/1933-38-Armonia
1933年 慶応義塾マンドリン倶楽部とArmonia[服部 正(指揮):Tadashi Hattori] |
『慶応義塾マンドリン倶楽部の仙台に於ける演奏會は先に予定された如く去る4月29日、本アルモニア主催仙台三田会、仙台育英中学校学友会、河北新報社の後援で遂に開催された。 本演奏会は昨年末育英中学側の招請に應じて開催される筈の所延期され、本年1月21日育英中学創立記念祝賀会に服部氏を初めとしたクインテットが来仙演奏(非公開)された事は前号32ページに所報した所であった。 そして同倶楽部がオーケストラとして仙台に演奏する事は昨年末からの希望であった為、陽春を期し本アルモニアの後援として是非仙台に開催するべく奔送を約したのであった。 その後、主催となるべき育英中学校に於いて、主催を辞すし為に、此の演奏会を音楽を同じうする吾々の中で開催したき意をもつて改めて服部氏より本アルモニアに申越あり、初めてこの演奏会をアルモニア、主催の形式に改め、全般の準備を進める事となった。 斯くて慶応とアルモニアとの共同の下に此記念すべきコンサートが開かれる事となった。 曲目の中一曲をアルモニアと合同演奏の事となり、其為にアルモニアは澤口氏指揮して練習開始した。 一方会準備、会員券の頒布等地元アルモニアメンバーは全力を傾けた形であった。 地方合奏団又は愛好者としての期待は相当大きく、よき伝統を持つ慶応の演奏に接する喜びが満たされていた。 4月28日指揮者服部正氏来仙。 澤口氏及伊藤氏、育英の中村氏、外数氏出迎へた。 その夜はアルモニア側の合同演奏の練習である。 殺風景なアルモニア側練習所にメンバーはテュニングして待っていた。 やがて紹介後服部氏のバートンによりヴェルキの第一序楽の練習が初められた。 此の練習はアルモニアのオーケストラに凡ゆる意味でよき影響を与えた事は云ふまでもない。 緊張せる練習であった。 終つて服部氏を中心に紅屋階上に茶をすすりながら座談が開かれた。 アルモニアの合奏に到する服部氏の感想なども語られて散会した。 29日は恵まれた好天、あたかも桜時で会場付近の人出は驚くばかりと言った風である。 係メンバーは早くよりそれぞれ部署に着いて準備を進める、慶応メンバーは独唱者、矢追婦美子氏と共に午後四時半の準急で着仙、迎えに出る。 演奏開始は七時牛、番外の育英中界校々歌から始める高久氏の独奏後合同演奏である。 慶応20名、アルモニア20名の合同で、当地では試みる事の出来ない演奏でありヴェルキの曲も斯くしてよき表現を見られた。 独唱は矢追婦美子氏でアンコール2曲。 最後の「妖婦の舞」を終ったのは9時半であった。 種々な奔走がこの一夜の演奏で終つてとに角ホットした気持ち、主催者側として準備が不充分ではなかったかと思念しつつも無事終演となった。此日地方からの来会者も相当に見えたのは何んとしても力強かった。 石巻市に合奏を初めつつある菅の又氏、外数氏、古川町の近藤氏など、福島高商マンドリン部員なども来会された。 又八戸に就職せる永田氏など、帰省していた高橋氏も来会された。 アルモニアコンサートの常連も大部分来会して、この演奏会を意義あらしめたのも嬉しかった。 30日は午前10時から育英中学内の一室で交換茶話会が開かれた。 此日も稀に見る晴朗日、昨夜の疲れも見せす全部出席、咋夜の演奏会で互いに顔も覚えず、氏名もとより知らない両メンバーが白日に向合ったわけである。 澤口氏の言薬があってから服部氏の挨拶があり、又慶応とアルモニアの演奏をもたらした人として育英の中村氏の挨拶があって懇談に移った。 アルモニアメンバーから自己紹介を初める。慶応メンバーも初める。 傑作紹介に朗かな笑が洩れて行く。寄書を二部作って一部づつ保存するという事になった。 話は尽きないが、もう帰京の時間にもなって別れを惜しみつつ停車場へ急がねばならなくなった。 アルモニア全員見送する。プラットフォームに慶応バンザイ、アルモニアバンザイの声が乱れて相別れたこれで演奏会は終了した。 経済的には余り恵まれなかったこの会も吾々の益した事ども、音楽を同じゅうする者の交はる喜びなど、果又プレクトラム音楽発達の為に一助をなした事など経済的不遇を逝かに越しているものがあったと思う。 吾々の催しが斯る意義を持つ事でも幸甚なのである。 (曲目その他はプログラムで知られ度い)。 |
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服部 正 [ Tadashi Hattori ] 経歴・人物
服部 正(はっとり ただし、1908年3月17日 - 2008年8月2日)
日本の作曲家。
日本におけるクラシック音楽の大衆化に努めた。
同姓の服部良一やその息子の服部克久などとの縁戚関係はない。
[経歴・人物]
東京市神田区(現在の東京都千代田区)出身。
青山学院中等部を経て慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、三井生命保険に入社したが40日で退社。
学生時代にはマンドリンクラブに所属。
- 1930年に「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催のマンドリンオーケストラ作曲コンクールで『叙情的風景』が入選。
その後、菅原明朗に師事した。 - 1932年、帝国音楽学校講師となる。
- 1933年、『管弦楽のための組曲』を山田耕筰指揮・日本交響楽団演奏にてNHKより放送。
- 1935年には初のオペラ『雁の渡る日』をNHKより発表。
- 1936年、時事新報主催の音楽コンクールで三部作『旗』の一曲『西風に飜える旗』が二等入賞。同年末に青年日本交響楽団を創設し、1946年まで指揮した。
- 1939年、東邦音楽学校(現在の東邦音楽大学)校歌『東邦の歌』制定時、在職教員であった植村敏夫が作詞を、服部が作曲を担当した。
戦中から戦後にかけては『次郎物語』や黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』などの映画音楽や放送音楽を担当した。 - 1953年、国立音楽大学教授に就任。
- 1955年に作曲した青少年のための国民オペラ『手古奈』が人気を博し、公式記録だけでも200回の上演記録を誇る。 ラジオ体操第1の作曲者でもある。弟子には小林亜星らがいる。
- 1978年、紫綬褒章を受章。1984年には勲四等旭日小綬章を受章。
- 2008年8月2日午前6時頃、老衰のため東京都渋谷区の自宅にて死去。100歳没
[出典/挿画]: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3