The relationship between the Iwakura Mission (1871-1873) and Western music during the Meiji period.明治時代の岩倉使節団(1871-1873)と西洋音楽の関わり
岩倉使節団 と西洋音楽
明治時代の岩倉使節団(1871年から1873年)が西洋音楽に接した記録は、報告書『特命全権大使米欧回覧実記』にアメリカやヨーロッパ諸国を訪問し、その際にさまざまな西洋音楽を聴いたことが記録されています。
例えば、使節団は訪問先でオペラやクラシック音楽の演奏を聴き、西洋の音楽文化に触れました。
この経験は、日本の音楽教育や西洋音楽の導入に大きな影響を与えました。
[*参考資料]
「国家と音楽 ~伊澤修二がめざした日本近代~」(奥中康人 著)
/【第二章】岩倉使節団が聴いた西洋音楽 ~ナショナリズムを誘発する合唱
[岩倉使節団が見聞した西洋音楽]大阪大学大学院文学研究科/著者名:奥中 康人/ Osaka University Knowledge Archive : OUKA
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/48188/mra_033_047.pdf
1871年-1873年(明治4年-明治6年)『岩倉使節団』

左から木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通
[挿画出典]:山口県文書館/文書詳細画面/特命全権岩倉使節一行(「明治五米国華盛頓府ニ於テ撮影」)より
岩倉使節団 の目的
岩倉使節団 (いわくらしせつだん)
1871年(明治4)11月から1873年9月にかけて、約1年10か月、米欧12か国を歴訪した、出発時46名よりなる使節団。特命全権大使は右大臣岩倉具視 (いわくらともみ)で、副使は参議木戸孝允 (きどたかよし)、大蔵卿 (おおくらきょう)大久保利通 (おおくぼとしみち)、工部大輔 (こうぶたいふ)伊藤博文 (いとうひろぶみ)、外務少輔山口尚芳 (やまぐちなおよし)。
使節団の目的は、
(1)幕末条約締盟国への国書の捧呈 (ほうてい)
(2)条約改正予備交渉
(3)米欧各国の制度・文物の調査研究
であったが、(2)には失敗、もっぱら(3)に専心した。
使節団の特徴には、
〔1〕大使・副使に明治政府の薩長 (さっちょう)の実力者が加わり、理事官(各省の専門官)にはその息のかかった者が多い
〔2〕書記官に旧幕臣が参加し、旧幕時代の国際的な文化蓄積を活用している
〔3〕平均年齢は約30歳で若さと弾力性に富んでいる
〔4〕米欧各国で政治、経済、産業、軍事、社会、文化、思想、宗教などあらゆる分野の制度・文物を詳細に見聞している、等々をあげうる。
その公式報告書が『特命全権大使米欧回覧実記』(全100巻、5編5冊、1878年刊)である。
使節団の帰国(ただし、大久保と木戸はそれ以前に帰国)後、この外遊派は「征韓」論に反対、明治六年の政変(10月)後は、大久保主導のもとに内務省を中心に大久保政権が成立し、米欧回覧の成果をその政策に生かそうとした。
従来は条約改正の失敗ということからこの使節団の評価と位置づけは低かったが、『米欧回覧実記』をはじめとする研究の進展で、この使節団の近代日本に及ぼす影響が再検討され始めている。
なお、この使節団には、金子堅太郎 (かねこけんたろう)、団琢磨 (だんたくま)、津田梅子ら42名の留学生が随行し、各国に留学した。
[田中 彰] ©Shogakukan Inc.
[1] 岩倉具視公/岩倉使節団 写真使用
[WEB使用写真元]:https://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/4-2-4-010.pdf
「山口県文書館」
①国立公文書館・・・アジア歴史資料センター 明治150年 インターネット特別展:岩倉使節団
https://www.jacar.go.jp/iwakura/document.html
大久保利通の次男・牧野伸顕(まきののぶあき)も、アメリカに2年留学しており、帰国後は文部大臣・農商務大臣・外務大臣を務めています。
ハーバード大学で法学を学んだ金子堅太郎(かねこけんたろう)は、同窓のアメリカ大統領と親しく交流し、日米友好に力を尽くしました。
留学から帰国した学生も活躍
1872年2月 シカゴ滞在中の女子留学生5名
岩倉具視 第1回渡欧民間女性留学生

左から:[瓜生繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子(当時6歳)、山川捨松]:(1872年2月)
[*出典]:Wikimedia Commons(PD)
1871年(明治4年)にアメリカ合衆国視察旅行から帰国した北海道開拓使の次官である黒田清隆は、数人の若者を留学生としてアメリカへ送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることにした。
黒田は、アメリカ西部の荒野で現地の男性と肩を並べて汗を流すアメリカ人女性の姿を見て感銘を受けており、留学生の募集を始める際には当初から「男女」若干名という、当時としては前例の無いものとなった。
開拓使のこの計画はやがて政府が主導する10年間もの長期間における官費留学という大掛かりなものとなり、同年に出発することになっていた「岩倉使節団」に随行して渡米することが決定した。
戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的に応募させたのである。
その一方で女子の応募者は皆無で、当時は女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間という長期間にわたって若き乙女を単身、異国の地に送り出すことなど考えられない時代だった。
留学生として使節団に随伴した学生にも、日本の近代化に貢献した人物がたくさんいます。
津田梅子と同じく女子留学生として参加した瓜生繁子(うりうしげこ)[注釈 1] は、アメリカで音楽を専攻し、帰国後は文部省直轄(ちょっかつ)の音楽取調掛(現在の東京藝術大学音楽学部)に採用されました。
[*出典]:Wikimedia Commons(PD)
瓜生 繁子(うりう[注釈 1] しげこ)1861年(文久元年)- 1928年(昭和3年)
日本の華族。教育者。ピアニスト。
出生名は益田 しげ(ますだ しげ)で、旧姓は永井。
ヴァッサー大学音楽科を卒業した日本最初の女子留学生の一人で、西洋音楽の分野で大学教育を受けた最初の日本人であるほか、日本最初のピアニストとされている。
恋愛結婚で結ばれた瓜生外吉(海軍大将、男爵)との家庭生活を全うしながら、東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)教授と女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)教授を兼任して高等官に列し、20年以上に渡って音楽と英語を講じたキャリアウーマンである。
三井合名理事長だった益田孝(男爵)は実兄である。
瓜生繁子・・・[出典]: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[出典]:国立公文書館 アジア歴史資料センター
https://www.jacar.go.jp/iwakura/person/index.html
