Itsukushima Perry

Important early guitarists in Japan日本における初期の重要なギタリスト

小倉 俊 氏について『東都におけるギター音楽界』N.M./愛好家の寄稿文より

[*転記]digital guitar archive/1932-31-Armonia P.186/P.187

『東都に於けるギター音楽は、マンドリン合奏と共に育つて来たものであり、今日の多くのギター奏者も何等かのマンドリン合奏団に属してている人である。
その関係からギター独奏は驚くほど稀にしか行われていない。
ギターを熱心に手にした人であるならば、その独奏がマンドリン合奏と離れた意義を持つている事を充分に知つて居る筈である。
東都に於けるプレクトラム音楽は今や合奏全盛であり、ギター演奏はそのプログラムの一つとして演奏檀上に乗る事も無いでは無いが、それも数年前、池上冨久一郎氏等が豊富なる『レパートリー』を持つて横浜等に活躍をなしたのに比すれば何となく物足りない。

実際、合奏演奏会のプログラムとしてギターの独奏が出されるとして、如何にそれが巧であるとしても、私逹は仲々それの奏者を理解することが困難である。
それ故に斯かる演奏によりその人を批評し曲を批判する事は誤りをまねき易い。斯かる付け足し的な演奏は決して私逹を満足せしめて呉れない。

而し去る数シーズンの間、その熱心なる研究と非凡の才能を持つて東都のギター音楽界に活躍をなしている人がある。
すなわちクラバ・タルレガの会長たる小倉 俊氏がそれである。
私は氏の活躍に多大の興味を以て数シーズンの氏の活動を注目して来た。

数シーズン前の氏は未だギター独奏者として左程目立った存在では無かった、然し咋1931年秋の氏の演奏会は氏をして斯界の有数のギター奏者たらしめた感がある。

即ち此の演奏会は最も忠実にして将来あるギタリストの演奏会であった。

タルレガを尊重し、カルカッシを捨てず、ブロカを解し、更にリヨベットを取入れる氏の態度はギター研究者の学ぶべき好模範では無いであろうか、私は何も氏のテクニック、テスタメン・デルアメリヤを奏し(そうし:「言う」の謙譲語)、アルベニスのレエジェンダを奏し、又はアルハムプラの思い出をアンコールに出した氏のテクニックに感心しているものではない。

最近に於てソルのテーマバリイが演奏会のプログラムに乗っている事も知るが、私等が最も注意の目を以つて見て来た所は、小倉氏のギタリストとしての研究態度であったのである。

成程カプリチオアラブを奏し、或はテーマバリイを弾き、又はトレモロスタデイーを奏するの人は数多くあるであろう。
而しタルレガのワルツを或程度にワルツとして弾いた氏のカルカッシであればこそ、又アルハムブラの思い出にしても意義があるのでは無いだろうか。
成程数シーズン前の氏の演奏に比し著しいテクニックの進歩を示して居る今日でも、アルハムブラの思い出の或る部分に於いて伴奏音に無理な所もあり、テスタメンデルアメリャにも明瞭を欠く所が無いではないが、然し生れ出づる前のギター音楽界の氏に於て私逹は何等の加うる可き非難を持たない。
私逹が氏に望む所は斯る問題ではなく、その演奏会ごとに余りに素人的な二部合奏などを取入れる事に就て一考を煩わすとか、使用ホールの音響効果等の問題で氏のギター奏者としての態度に関して多くの要求を持つものでは無かった。

私逹は氏の存在に此上なき期待を掛けている。
勿論ギター音楽普及、否その純音楽的地位獲得に向うには不断の努力が要求せられて止まない。
私と同伴して氏の演奏を聴いたピアニストは音量の不足を遺憾とした。

而し之は共のビアニストのギターに到する認識不足であって私逹の問題とせざる所であるが、テクニカルな缺點[あら:欠点]は斯かるピアニストに限らず、全部の聴衆に野して大問題であるギターとは一流奏者が奏してもあんな雑音が入るのであろうか?の此の疑問は直ちにギターその物の生命に関する問題である。

ギターを手にしている私逹は真のギターを知る故問題は簡単はあるが、ギターを始めて見聴きする者に対しては非常な重大問題である。
この点にギター音楽確立運動に参加する諸氏の苦心があると言える。

而しこの問題もシーズンを重ねる毎に薄らいで行く事実を見るに付け、早晩解決されるものであろうと期待している。

最後に一言したいのは私逹はこれ等の問題を小倉氏一人の責任に帰して傍観していてよいのであらうか。
ギター音楽は一人のギター奏者により代表されていてよいのであらうか。
そしてギター音楽を享楽するにはレコードを聴くより他には無いであらうか。

成程セゴヴィアは殆んど絶対的と言われる迄にギター昔楽奏者である。
そしてそのレコードは多くの人々に賞賛されつつ ある。

然しながらレコードを聴きつつ譜を繰つて感心するのばかりが能では無い。
私は多くのギター奏者が熱心なる研究を続け一日も早くマラツの『セレナーデ』が窓辺に流れタンスマンのマヅルカがパーラーに奏されアルベニスの塔が、亦トルロバのソナタがポンスの作品が演奏会のプログラムに書かれギターの全盛の日の来たらん事を願つて筆を置く次第であります。』


1932-31-Armonia P.186/P.187



小倉 俊 Shun Ogura

小倉 俊
1929年 『宮本金八 製作』ヴィオロンギターを持つ小倉 俊

小倉 俊[Shun Ogura](1901年-1977年)

昭和期のギタリスト,作曲家
[生年]:明治34(1901)年2月2日
[没年]:昭和52(1977)年10月7日
[出身地]:東京
[学歴]:早稲田大学〔大正13年〕卒
[経歴]:大正5年(1916)15歳の時、マンドリンを得意としていた級友が教室でギター演奏会を開いた際、その伴奏ギタリストとして呼ばれてきた吉沢吉太郎の演奏に強く惹かれ、以後、吉沢にギターの手ほどきを受ける。
大正13年(1924):早稲田大学卒業後、大丸に就職する傍ら、ギター演奏の指導を開始。
大正14年(1925):同社を退社して愛知県の豊橋中学教師となり英語と経済学を教えた。

左の写真は1929年に撮影されたもので、彼が手にしているのは宮本金八の「バイオリン・ギター」である。
このギターは大河原の写真に写っている「バイオリン・ギター」よりもアルペジョーネに近い形状をしていると思われる。

小倉 俊夫妻
193?年 小倉俊氏, Emiko Komimura嬢, 関根氏,小倉婦人

昭和5年(1929):世界的ギタリスト、アンドレス・セゴビアの来日公演に衝撃を受け、教職を辞してギターに専念。
同年:自作を含めたリサイタルを開いてデビューし、以後、さかんに独奏会を開いた。
昭和9年(1934)以降は独奏会を開かず、後進の育成に力を注ぎ、演奏、出版、教育面など、日本ギター界の草分けとして活躍。
楽曲の研究も進め、和声楽を山根銀二に学ぶとともに日本的な表現の追及にいそしんだ。

[作品]:「三つの前奏曲」「アルバム・デ・ムジカ・ナシオナル第1番」、組曲「唄」など。
「ギター事典」などがある。
弟子に小説家の深沢七郎らがおり、今上天皇も皇太子時代に一時その指導を受けた。

[著書]

  • カルカッシ・ギター教則本‏
  • ギター重奏名曲集‏
  • [レコード]:1935年10月末 再び、ギター8重奏 コロンビア

[*出典]:日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
[*出典]:日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)

小倉 俊
1935年東京-小倉俊氏、ジャビエル・アルフォンソ氏(ピアニスト),ホアキン・ロカ氏(ギタリスト),マヌエラ・デル・リオ(舞踊家),関根氏,

小倉 俊 Shun Ogura

前出、『ARTICLES/日本における初期のギターと重要なギタリスト』より再掲載。

小倉俊 (1901-1977)は、この影響力のあるギタリスト(武井、中野、沢口、大河原)と同じグループに属していましたが、他のギタリストとは違い、主な活動は教育でした。

また、沢口や中野と特に違うのは、私立大学の早稲田を卒業したことです。
外国の出版物を研究するために、スペイン語を学ぶべきだと決心し、東京外国語学校に入学して卒業しました。

ギターを始めたのは16歳くらいの頃だったが、初めてリサイタルに出演したのは1930年4月、慶応マンドリンクラブでの演奏だった。
翌月には「小倉俊の夕べ」が開催されたので、成功だったに違いない。
彼はコステ、カルカッシ、セゴビア、タレガ、ソルなどを演奏した。
同じコンサートで、マンドリンアンサンブルでも演奏し、声楽作品の伴奏も担当した。

El Club «Amigos de Tárrega»
El Club «Amigos de Tárrega»

1938年、彼はプジョールの『ギターとその歴史』を翻訳し出版した(主に生徒向け)。
その後も『小倉ギター演奏技法』『ギター記譜法と演奏法』『ギター音楽辞典』『ギター辞典』(参考文献参照)など多くの本を出版した。
これらの多くは同様の内容で、時とともに更新され、100ページ強から1970~74年には2冊の本になるほどの情報量になった。


彼は長年、日本最大の音楽出版社「音楽之友社」のギター顧問を務めた。
この立場で、彼は直接的または間接的に、音楽之友社が出版した教則本、アンソロジー、その他のギター関連資料の量に大きな影響を与えた。


小倉氏は、天皇が明仁であった当時、初のギター教師を務めたという栄誉に輝いた。(現在の天皇は1989年に皇太子の位に就いた。)[*註1]

[*註1]:現在、 明仁(Akihito)上皇 (第125代 明仁天皇)で、明仁皇太子時代。( 2025/04/16 管理人追記 )

小倉 俊  Shun Ogura
小倉 俊 Shun Ogura

小倉 俊 Shun Ogura

ギター独奏
1930年4月、慶応マンドリンクラブでの演奏だった。
1930年5月 「小倉俊の夕べ」が開催された。
彼はコステ、カルカッシ、セゴビア、タレガ、ソルなどを演奏した。
同じコンサートで、マンドリンアンサンブルでも演奏し、声楽作品の伴奏も担当した。

ゲスト:小倉 俊(ギター独奏) guest: Shun Ogura (Solo Guitar)
リンゼイ[George C. Lindsay]
雨滴れ(雨だれ)[Raindrops]
ピニョッキ[Emanuele Pignocchi]
舟歌[Barcarola]
カルカッシ[Matteo Carcassi]
ワルツ[Waltz]
宮田 政夫[Masao Miyata]
鵠沼の思い出(鵠沼の思ひ出)[Kugenuma-no-Omoide]

小倉 俊
小倉 俊

[*転載]:digitalguitararchive/1932-33-Armonia P.232-P.235

宮田政夫と私共:小倉 俊

宮田君(1900ー1930)と言うより私共には、政ちゃんとか、マー的と言う方がなつかしいのですが、その亡き宮田政夫君の作品が改めて仙台アルモニアから澤口君の御好意でプリントされるのは非常に嬉しい事です。
作品については別に私が申し述べるすじでもありません。ただ申し上げて置きたいのは、彼の生活ですが、それも精しく申し上る適任者でもありません。

彼を第一マンドリンとし、加納徳三郎君を第ニマンドリンとし、内田寅夫君をマンドーラとして私がギタルラを受持つて作りあげた、マンドリン・クオルテット・”ヴェネチャ”が私には、宮田君との共同生活の最も愉快であったものです。
”ヴェネチャ”は、私のみならす、四人の最も楽しい生活でありました。
難かしいところへ来ると、宮田君は鼻穴を開閉し、第ニマンドリンは、首を横に振りながらニヤニヤ笑い、マンドーラは、舌をベロベロとさせ、ギターは、鼻ィキ荒くなるのも楽しい思い出となりました。
毎週二回乃至一回の定期練習は数年の間続けられましたが、宮田君が病気になり、学校を出て就職の為、みんながヴェネチャの練習を打切ったにせよ再度の復活を望んでいましたが遂に宮田君の死に総ては終りました。

その頃の手紙が少し残っていますーつを発表いたしましょう。

我が最も親愛なるSIGNON:Mandolin/第2Mandolin/Chitarra・・・その後はは大変「フェルマータ」が続いて、失敬しちゃいました。
こんな病院へたたたき込まれて毎日々々ふらふらしてる中にもう一週間たってしまいました。
どうしたわけか、すつかり筆無精になっちまつて「フェルマータ」の小節が「*新しい記号」になってしまいました。
さぞかし皆様で御案じ下すつてることと邪推致しますから、今日は思ひ切つて精力とペン先とインクとを消耗して書きます。

(中略)・・・僕の病氣があんまり好いのでとうとう我まん仕切れす、今日か明日かと飛び出すchanceをねらつて居ましたが、とうとう、明日(18日) 相州の鵠沼海岸の河東屋へ引き越すことになりました。
まづは目出度し、目出度しです。
そう云ふわけで、まるでuneasyな生活なので、とても楽想なぞ出やしません。
出そうと思って威気張ると、出るのは下の方から何んとやら……で、この間一寸書き度くなったから、五線紙を前に鉛筆を持つと、賢者と云うmonsterに折角の楽想を目茶苦茶にされてしまいました。

若し此の時monsterの回診さえなかったら或は永世不滅の傑作が出来たかも知れないと思うと一層、腹の虫が不承知です。
Mandolinも一日一回位しか弾く気になれないのです。
本もとても読む気になれず、伊太利語の勉強などはもっての外。それぢや一体何をしてるんだと御思ひになるかも知れませんが、何んにもしてないとお答へするより外ありません。

小倉 俊
1960年代の小倉 俊

只朝6時から、夕8時まで、2時間おきの検温に忙殺されてるのです。 (中略)・・・Signore Chitarraさんも妙だがこっちへ来る前Chitarraの譜を3つ4つ買つて来ました。
未だ弾かないんですが、好いのがある様です。其の中皆なして、あづまやへ来て下さい。
そして弾いて見て下さい。

今マンドリンだけしか持つて来てありませんが、鵠沼ヘ行ったら、ギタルラもとり寄せる筈です。
(中略)・・・時に共後Capriccio Zingaresccはどう。 もうお手のものなんでしょう。一度遊びに来て聞かして下さい。
とにかくTrioで或日・・・或は或日と或晩とその翌日の或日位、遊びに来て長閑な春の海のひねもすのたりのたり哉、てな気分を味つてはどう。
と、ここですすめるまでもなく、やって来ること、お待ち申して居ります。
クラブの三田の方のも、曲目などきまつて盛んに練習なすつてる事とお察してます。
まあ10日に1度位はお江戸の地をふむ事が出来るでせうから、其の時でも暇があったら練習でも伺い度いと思つてます。
秋にはMunierの10年祭をやりましょうね。
Trio originaleでもやって置いて下さい。
そして僕等のQuartettoも試演会てな事をやろうじやありませんか。
如何。-(中略)-それから、おぐら、きたるら、しにょうれに頼みます。伊太利語をなるたけ勉強しておいて下さい。
教わるから。-(中略)-こうやってると頭がどうかして居てさっぱり書けません。
明日からは鵠沼ののんびりした生活です。ここよりは少し話相手がなくて、口淋しいかも知れませんが、此処でNurseとの夫婦暮しよりも、有味濕潤だらうと存じます。兎に角、皆さん、これでさいならだ。
そして遊びに来て呉れ給え。クラプのみんなにもよろしく。真実なる貴兄方の一番より、此家は番外一番だ。・・・それから、その第1回の成績をムニエル10年祭で発表いたしました。そして之がヴェネチャの最後の演奏会です。
そのプログラムは次の様なものでした。

[プログラム]
1.ニ長調四重奏曲(ムニエル策128番)
2.ギター二重奏曲
 ・バルカローラ(ムニエル作262番より)
 ・ガボッタ(ムニエル作262番より)
3.トリオ・オリヂナーレ(ムニエル作156番)
4.祈り/愛の嘆き
5.独奏「ラブソング」(ムニエル作275番)
6.ト長調四重奏曲(ムニエル作76番)
[1921年12月23日]

私共は、マンドリンの我国に於ける開花期、及びギターの揺藍期の育ちです。
すべての技巧が発見されて演奏された時代です。希望の時代でした。
現代とは全く夢の様な別のロマンチイクな時代でした。
その後宮田君はR・M・G誌を発刊する様になりましたが、此頃は私は宮田君とは離れて居りましたので誌上で、その後の運動を知るのみでした。
そして、私が東上した時宮田君は,その病の為に芸術家として悲惨であった生活を天国に移伝したのです。
『鵠沼の思ひ出』は初期の作品です。多分月村さんが初演されたでしょう。

『メロデイア』四重奏曲は私は、よく存じません。以上で宮田君の一片影をお紹介申し上げた事にいたします。

1932-33-Armonia P.232-P.235

小倉 俊
1936-Biblioteca Nacional de España
1935年東京-小倉俊氏、ジャビエル・アルフォンソ氏(ピアニスト),ホアキン・ロカ氏(ギタリスト),マヌエラ・デル・リオ(舞踊家),関根氏。

デル・リオ来朝の後で・・・小倉 生

digitalguitararchive/1936-55-Armonia/P.26-P.28
デル・リオ一行は、上海公演の後、再び日本へ帰ってきたが、博多一ケ所の公演の後、1月22日神戸出帆のフランス船で帰る事になってしまったので、東北その他への彼等の希望は駄目になってしまった。

1月17日の夜アルフォンソ君から再び上京の電報を受取った。
之より前、コロンビャの作曲家、古関裕而君が、彼等の為の日本風舞曲を作曲する事になって居たので、早速古関君に電報を打つて、作品のデイスコ化を手筈した後ホテルへ彼氏を訪ねた。
既に、舞踏批評家 蘆原英了氏が廊下に立つてアルフォンソ君と話しをして居た。
やあと云ふ訳で話して見ると,今度はもう公演がないので帰るのだが、東京の友人達にワザワザ会いにやってきたのだと言う。
デル・リオ女史とロカ君は、大阪に船をまつて居るので、之は、貴兄への伝言の手紙だと、新大阪ホテルのレターペーパーに書かれた、お別れの言葉を読む事になつて仕舞った。
そこで、直ぐ、又、古関君には吹込不可能の電報を打つて、アルフォンソ君の友人への都合を手筈する等飛び廻つて仕舞った。
けれど、之を機に一つのギターとビアノの邦人の作品が生れた事は喜ばしい事である。
(此の作品をアルモニアから刊行する様にしたい。) 話しは、色々であったが、二、三を思ひ出してうめ草にしよう。~<後略>~

「クルブ・ターレガ」第14回演奏会
「クルブ・ターレガ」第14回演奏会

[1938年5月14日]「クルブ・ターレガ」第14回演奏会

[挿画]小倉俊氏主宰「クルブ・ターレガ」第14回演奏会(5月14日)
前列左より小栗孝之、江添滋子、洒井菊野、小山喜美子、宮本金八、小倉俊、久保百合子、山本朝香、飯坂虎二郎、籐村観の諸氏
後列左より3番:鄭世源、4番:深澤七郎、5番:山添正二、6番:京戸章の諸氏。

1938年  小山喜美子リサイタル
小山喜美子リサイタル

1938年12月11日 小山喜美子リサイタル

[挿画]:1938年 小山喜美子リサイタル
小山喜美子氏(東京 小倉門下)
1938年12月11日東京YWCA でリサイタルを開く。
本年は女性ギタリストの躍進目覚ましい。

小山喜美子氏リサイタル 記念写真
(昨年・12月14日本邦斯界参照)

[前列右より]:菊池綾子、江添滋子、小倉俊先生、小山喜芙子、洒井菊野、福間日出子
[後列右より]:藤村観、松本正次郎、山添正二、小栗孝之.深澤七郎、飯坂虎二郎、本多辰弥の諸氏
[*挿画]digitalgukitararchive/1938-72-Armonia P.34




18-1954-Guitar-News/P.12-13
APRIL-MAY, 1954

THE GUITAR IN JAPAN By S. Ogura

   THE progress of the music of the guitar in Japan ran parallel with my life,so I'll write a short history of it.
   There were several guitarists before me, but as they chose the guitar as a minor occupation, I am the first professional guitarist in Japan.
   In 1918 I saw my class-mate of middle school at a school festival, playing a mandolin accompanied by a friend on the guitar.
This was my first introduction to the guitar and I was deeply impressed with its musicality. Interested, I searched for a guitar, but at that time few were to be found in Tokio. Little by little as time :rrogressed, Japanese-made guitars appeared in the windows of the music shops.
   As the mandolin orchestras progressed in popularity, so too the guitar became better known. Several guitarists were born of these orchestras.
   In this period Baron M. Takei, who was studying mandolin and guitar,originated a magazine which published music for these instruments.
   Mr. Takei was already studying the compositions of Francisco Tarrega and other Spanish guitarists. We feel very fortunate to have had Takei whom we consider our first pioneer of the guitar.
   Fortunately the first foreign guitarist who visited Japan (in 1929) was Mr. Segov.ia. We found his playing astoundingly beautiful as well as educational.
   It was at this time that the Japanese Victor Co. published his recordings.which were very beneficial to the guitarists of Japan.
Now more music was being published including a magazine by Mr.Sawaguchi.
   In 1932 the Spanish dancer Teresina came to Japan with Carlos Montoya.
who introduced the flamenco style of playing. In 1933 the Spanish dancer and guitarist Asuncion Granados held functions in Japan. We were visited again by Spanish dancer Manuela del Rio in 1935, who came with her husband guitarist, Joaquin Roca.
   More and more the guitar and its music were advancing in recognition and popularity, but guitar recitals were seldom and the guitar appeared only in selected spots.
   With the beginning of World War II the guitar's progression stopped,but after the war it sprang up with new enthusiasm. At present there are many young students progressing well in the understanding of guitar music.
   Japan looks upon them with a hopefully watchful eye, anxiously awaiting the day when we can find the place in this world of wonderful music that isbeing saved for us.



18-1954-Guitar-News/P.12-13
APRIL-MAY, 1954

『日本におけるギター音楽』 小倉 俊

『日本におけるギター音楽の発展は私の人生と並行して進んできたので、その短い歴史を記そうと思います。
私以前にもギタリストは何人かいましたが、彼らはギターを副業として選んだため、私が日本で最初のプロのギタリストです。

1918年、私は学園祭で中学校の同級生が友人のギターの伴奏でマンドリン演奏をしているのを見ました。
これがギターとの出会いで、その音楽性に深く感銘を受けました。
興味を持ってギターを探しましたが、当時東京ではほとんど見つかりませんでした。
時が経つにつれ、日本製のギターが楽器店のショーウィンドウに少しずつ並ぶようになりました。

マンドリン・オーケストラの人気が高まるにつれ、ギターも知られるようになりました。
これらのオーケストラから多くのギタリストが輩出されました。
この頃、マンドリンとギターを学んでいた武井男爵 (武井守成)は、これらの楽器の楽譜を掲載する雑誌を創刊しました。
武井氏はすでにフランシスコ・タレガをはじめとするスペインのギタリストの作品を研究していました。
ギターの最初のパイオニアと仰ぐ武井氏に出会えたことは、私たちにとって大変幸運なことでした。

幸運なことに、1929年に日本を訪れた最初の外国人ギタリストはセゴビア氏でした。
彼の演奏は驚くほど美しく、また教育的であると私たちは感じました。
ちょうどこの頃、日本のビクター社が彼のレコードを出版し、日本のギタリストにとって非常に有益なものとなりました。

澤口氏(澤口忠左衛門)による雑誌をはじめ、さらに多くの楽譜が出版されるようになりました。

1932年には、スペインのダンサー、テレシーナがカルロス・モントーヤと共に来日し、フラメンコの演奏スタイルを紹介しました。
1933年には、スペインのダンサー兼ギタリストであるアスンシオン・グラナドスが日本で公演を行いました。
1935年には、スペインのダンサー、マヌエラ・デル・リオが夫でギタリストのホアキン・ロカと共に来日しました。

ギターとその音楽はますます認知度と人気を高めていきましたが、ギター・リサイタルは稀で、ギターは限られた場所でしか演奏されませんでした。
第二次世界大戦の勃発とともにギターの発展は止まりましたが、戦後、新たな熱意をもって復活しました。
現在では、多くの若い生徒がギター音楽の理解を深めています。
日本は彼らを期待に満ちた目で見守り、この素晴らしい音楽の世界に私たちの居場所を見つけられる日を心待ちにしています。』





NHK教育テレビの『ギター教室』
NHK教育テレビの『ギター教室』は1966年4月8日〜1973年3月30日まで土曜日の夜(19:30〜20:00)に放送されていました。
講師の小倉俊氏は1967年前期(4月~9月)を担当し、後期(10月~3月)は京本輔矩氏が担当しました。[*NHK年鑑に記載された『ギター教室』より]

1967-NHK教育テレビ-ギター教室-小倉俊

1967年 NHK教育テレビ 『ギター教室』小倉俊
[*挿画]digitalguitararchive/GUITAR NEWS/97-1968





小倉俊記念レコード
1977年6月 小倉俊記念レコード

1977年6月・委託制作盤 『小倉俊記念レコード』

A面
1.メヌエット(パガニーニ)
2.練習曲第6番(アグアド)
3.ヴァルス・アンダンティーノ(カーノ)
4.二つの前奏曲(エンデ―チャとオレムス)(ターレガ)
5.ベニスの舟歌(メンデルスゾーン=ターレガ)
6.雨だれ(リンゼイ)
7.二つの前奏曲(モラレス)
8.シェラ・モレナ(ガルシア)

[書誌]:国立国会図書館デジタルコレクション
製作者(レーベル)コロムビア(戦前)発売年月日 1936-03

小倉俊記念レコード
1977年6月 小倉俊記念レコード

B面
1.練習曲(カルッリ)
2.こま(武井守成)
3.お手玉(武井守成)
4.晩春の丘(武井守成)
5.南風(武井守成)
6.暁の夢(武井守成)
7.雨の窓(武井守成)
8.ハバネラ(マス)
9.ローレライ(ジルヒャー=小倉)
10.帰れソレントへ(クルティス=小倉)
11.嘆きのセレナード(トセリ=小倉)

[書誌]:国立国会図書館デジタルコレクション 製作者(レーベル) コロムビア 発売年月日 1950-06

[*挿画/曲目出典]:aucfun/『LP(ギタリスト・’77年6月盤・委託制作盤) 小倉 俊 OGURA SYUN / 小倉 俊 記念レコード』委託製作:日本コロンビア㈱






小倉俊 著/編 著書


[著書]

[*参照]:CiNii Booksの著者ページ


※小倉 俊氏は翻訳者・編曲者としても活動しており、スペインのギタリスト・作曲家であるエミーリオ・プホールやミゲル・リョベートの作品を日本に紹介しています。


ギター演奏法基礎技巧

1940年(昭和15年)ギター演奏法基礎技巧

ドミンゴ・プラット著 / 小倉俊訳編 楽苑社

ギターラ記譜法・演奏法

1941年(昭和16年)ギターラ記譜法・演奏法

小倉俊 著  全音楽譜出版社

ギター サロン・ミユジック

1947年(昭和22年)ギター サロン・ミユジック

小倉俊 著  東京新興音楽出版社

ギター 独習

1949年(昭和24年)ギター 独習

鶴田壽夫編/小倉俊 共著  新興音楽出版社

リョベート傑作集 付フラメンコ

出版年:1953年(昭和28年)

リョベート傑作集 付フラメンコ 小倉俊編 東京創学社

ギター音楽事典

出版年:1954年(昭和29年)

小倉俊 著  全音楽譜出版

初等科ギター教室

出版年:1956年(昭和31年)

小倉俊 著  全音楽譜出版

ギター入門

出版年:1958年 (昭和33年)

ギター入門 編者:小倉俊 発行者:目黒三策 発行者:㈱音楽之友社

初級ギター曲集

1962年 (昭和37年)

初級ギター曲集 小倉俊:編 音楽之友社

カルカッシ・ギター教則本

1962年 (昭和37年)

カルカッシ・ギター教則本 小倉俊:編 全音楽譜出版社

初級ギター曲集Ⅱ

1967年 (昭和42年)

初級ギター曲集Ⅱ 音楽之友社発行

ギター重奏名曲集

1969年 (昭和44年)

ギター重奏名曲集 音楽之友社発行

ギター事典 (1) 歴史と人名

1970年 (昭和45年)

ギター事典 (1) 歴史と人名

ギター事典〈2〉演奏と記譜法

1974年 (昭和49年)

ギター事典〈2〉演奏と記譜法 小倉 俊 (音楽之友社)


[*挿画]:日本の古本屋,amazon.co.jp,mercari,風船舎





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