1905: The first mandolin quartet in Japan Kenpachi Hiruma
比留間賢八氏については武井守成男爵が「本邦斯界過去現在」/「本邦にマンドリン、ギターの入りたる時期」の中で下記内容で記述しているので、紹介します。
~[前略]~。扨(さて)本邦において最初にマンドリン教授を初めて人は誰かと言えば私は比留間賢八氏を推すに躊躇しない。
同氏が独学でマンドリンの研究を始めたのは明治32年頃の事でその動機は進歩した洋楽を日本一般の家庭に広めたいと言う希望からこの楽器が最もてきとうであることを認めたのだという事である。
翌33年氏は渡欧しドイツベルリンに滞在中同地のマンドリンギター教師アルティエレ・コルナーティ(Artiele Cornati)と言うイタリー人に就いて教授を受け、帰途同氏の紹介で各地の斯界を視察の後明治34年6月帰朝、茲(ここに)本邦最初のマンドリン教授に従事したのである。
比留間氏は又一方米国のマンドリニスト、サミュエル・シーゲルの通信教授に加入してその一定の業を修めた事がシーゲル通信教授人名簿に載っている。
比留間氏はその後教則本を著したり稀に演奏会にも現れたが元来氏の使命はマンドリン教授にあるのでその後目覚ましい発展をされなかった事は何ら不思議でない。~[後略]~。
[*転記]:本邦斯界過去現在/P.439-P.440
1905年(明治38年)??月??日 わが国最初のマンドリン四重奏団
[*挿画]:片岡マンドリン研究所/歴史の部屋/比留間賢八・きぬ子の歴史と音楽史 より
[メンバー] : 左端より山内英夫(里見 弴)・菅田敏光・比留間賢八・高崎弓彦
1905年(明治38年)??月??日 学習院輔仁会[*1]における、わが国最初のマンドリン四重奏団
※『里見弴:さとみ とん』本名:山内英夫(1888年 - 1983年)は、小説家。有島武郎・有島 生馬の弟。
明治43年(1910年) 武者小路実篤、志賀直哉らと『白樺』を創刊。
- 1903年(明治36年)9月、中等科4年(当時16歳)
この頃、ギターの比留間賢八に就いて菅田とともにマンドリンを習う。 - 1905年(明治38年)10月(当時18歳)『オルフォイス演奏会』でマンドリンを演奏。とある。
※『菅田敏光(すだ としみつ』は、山内英夫(里見 弴)の旧友であり、児島喜久雄、中村貫之、大村謙太郎、田中治之助らと共に「絢友会」メンバーになった。
※『高崎 弓彦(たかさき ゆみひこ』1880年(明治13年)8月11日[1] - 1958年(昭和33年)4月9日[1][2])は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。
[*参照]:小谷野 敦(作家・比較文学者)ホームページ/文豪たちの詳細年譜 より
[*1]:学習院輔仁会
学習院輔仁会(ほじんかい)は、明治22年(1889年)に学生全体を包括する組織として創設されました。学生間の融和を図り、課外活動の中心機関となることを目的としています。