JOAKでの放送に対する好意的な反応を受けて、彼は1936年6月に名古屋ギター・マンドリン研究会を設立した。
同年末には「ギター・マンドリン界」という雑誌の発行を始めたが、18号で廃刊となった。それは彼が「アルモニア」、「楽友」、「マンドリン・ギター研究」などの雑誌に定期的に寄稿するようになったためであった。
これらの雑誌の読者は徐々に彼の知識の深さと日本のギターに対する彼の重要性に気づき始めた。
中野の作曲作品リスト、彼の音楽と本のカタログ、そして自伝が1962年の「フレット」(日本)誌の特別名誉号に掲載された。
日本ギター協会は、日本ギター協会誌(1986年10月号第6号)に、中野が同志社大学にコレクションを寄贈した際に中野に関する特集を掲載した。
中野の功績の一つは、イタリアギター協会主催の1954年国際ギターコンクールで「パガニーニの主題による30の変奏曲」[作品70 (1951)]が入賞したことである。
この作品はコンクールに関連して出版された( Cinque Variazioni sur un Tema di Paganini
Berben、1956)ので、ヨーロッパで出版された日本のギター作品としてはおそらく初めてのことであった。
全体として中野はギターよりもマンドリンのための作品をかなり多く書いた。彼はギターのために合計約38曲を書いたが、これにはソロ、デュオ、アンサンブル作品が含まれる。